川野辺氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/21 07:42 UTC 版)
- ^ 藤原秀郷については野口実著『伝説の将軍 藤原秀郷』(吉川弘文館、2001年)5頁以下、安木三郎著『藤原秀郷将軍』(牧歌舎、2006年)14頁以下参照。
- ^ 日本家紋研究会編『家紋でわかるあなたの祖先 茨城県北部地方』(日本家紋研究会、2001年)15頁、十六菊に一の字紋については日本家紋研究会編『家紋でわかるあなたの祖先 茨城県南部地方』(日本家紋研究会、2001年)20頁参照。
- ^ 太田亮著、上田萬年、三上参次監修『姓氏家系大辞典 第1巻』(角川書店、1934年)1662頁及び1671頁参照。石川豊著『南朝秘録 那珂通辰と常陸の豪族』(いばらきタイムズ社、1968年) 38頁及び41頁参照。
- ^ 石川豊前掲書(いばらきタイムズ社、1968年) 39頁~40頁参照。
- ^ 大内政之介著『新編金砂戦国史』(筑波書林、1993年)114頁参照。
- ^ この時、北朝方は常陸守護職 佐竹貞義を総大将として佐竹義冬、馬場景義、大内與五郎義高、小野崎政通、岡部六郎大夫宣隆、二階堂五郎、そして足利家人の後藤七郎基明、さらに石川中務詮持、伊賀三郎盛光、木田九郎時氏、小川時長、長倉遠江守義利、そして木村二郎大夫義昌など佐竹一門と足利家人、周辺の国人領主で構成されていた。大内政之介前掲書(筑波書林、1993年)95頁参照。
- ^ 石川豊前掲書(いばらきタイムズ社、1968年) 35頁、大内政之介前掲書(筑波書林、1993年)46頁参照。
- ^ a b 大内政之介前掲書(筑波書林、1993年)114頁、115頁参照。
- ^ a b c d e 大内政之介前掲書(筑波書林、1993年)115頁参照。
- ^ 徳川家蔵『水戸藩史料下編』(吉川弘文館、1970年)巻十九928頁参照。明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社、1986年)423頁には川野辺太一衛門則義とある。なお、河野辺四郎次は久慈郡金村の百姓で諱は盛義という。天狗党に属し、捕えられる。慶応2年(1866年)6月21日、江戸佃島で獄死。享年53。没後、靖国神社に合祀される。また、河野辺儀之介も久慈郡金村の百姓であり諱は利義という。天狗党に属すも捕えられ、武蔵河越から江戸佃島に移され慶応2年(1866年)6月23日、獄死。享年27(25とも)これら両名については明田鉄男前掲書(新人物往来社、1986年)422頁に詳しい。
- ^ 石川豊前掲書(1968年、いばらきタイムズ社) 33頁及び35頁、大内政之介前掲書(筑波書林、1993年)114頁、115頁参照。
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