上野長野氏とは? わかりやすく解説

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上野長野氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 15:13 UTC 版)

上野長野氏(こうづけながのし)は、戦国時代まで上野国西部を支配していた大身武士である。上州長野氏とも。家紋は檜扇(ひおうぎ)[注釈 1]


注釈

  1. ^ 長野氏が使ったとされる檜扇は4種類あるが、戦国時代に使用されたのは、九枚檜板の扇でその中央に日の丸があり、扇両端を綴(と)じて紐(ひも)の房垂があるものである。
  2. ^ なお、近年黒田基樹はこの事件の一連の文書の年代比定に問題があり、当時の政治情勢からこの事件を大永4年(1524年)の事件としており[8][9][10]、(久保田 2006a, 「長野方業」項目)も大永4年説を採用する。
  3. ^ 「長尾顕景書状」には「方斎」の名はない。大永7年11月17日の長野左衛門大夫方斎の書状[11]からの比定である。なお、後述のように山田邦明・黒田基樹は11月17日の書状は「方業」と読むのが正しい判読であり、「方斎」は誤読であるとする説を採る。
  4. ^ 『前橋風土記』には長尾賢忠とあるが、『前橋市史 第1巻』の考証でこれは長野賢忠のことだと指摘されている[18]
  5. ^ 『前橋風土記』の道安の名乗りが宮内大夫と共通することからの推定。
  6. ^ 『箕輪城と長野氏』は長野氏の系図の一つ「長昌寺記録」を一部採用した上での指摘。
  7. ^ 『群馬県の中世城館跡』(群馬県教育委員会事務局文化財保護課編、1989年)では、武蔵松山城攻めに長野氏が参加しなかったため賢忠は誅殺され長野氏は滅んだとする[25]
  8. ^ 『前橋市史』は賢忠かその子と推定、『日本城郭大系』は賢忠の孫・道賢(道安の子)に比定し、『室町・戦国期上野の地域社会』は彦七郎とともに彦太郎(賢忠の子)・大胡の伯父の後継者たちと推定する[21][19][24]。「戦国期上野長野氏の動向」は“藤”の草書体は厩橋長野氏の通字に用いられる“彦”の草書体と似る場合があることから、藤九郎は彦九郎の誤りで、さらに黒田は関東幕注文を永禄3年(1560年)末の作成とする立場から、同注文の厩橋衆の部分に彦太郎の名前が見られないことから陣中で殺害されたとされる彦太郎も彦九郎の誤り、すなわち「長野賢忠の曾孫である厩橋長野氏最後の当主・彦九郎の名前が“藤九郎”“彦太郎”という2種類の誤った名前で後世に伝わった」とする[9]
  9. ^ 『箕郷町誌』の系譜では憲業の甥で、信業の子とされる[20]。黒田基樹「戦国期上野長野氏の動向」では憲業の没後に箕輪長野氏で上杉顕実憲房の内乱に関連した内紛が生じた結果、厩橋長野氏から方業が入嗣し、業正はその子とする[9]
  10. ^ 『群馬県史 資料編7』No.2728によると、長野三河入道が戦死したとある。なお日付のみで年次は無く、『群馬県史』による比定である。
  11. ^ 「和田山系図」とそれを参考にした「箕輪城考」のみ尚業、他の「浜川系図」などは業尚。
  12. ^ 近藤義雄は『箕輪城と長野氏』において、方業は「橋林文書」に延徳元年(1489年)死去とあるので、方斎は方業の孫(業尚の子で憲業の弟)として別人説を主張している[2]。なお一方、黒田基樹は「戦国期上野長野氏の動向」において、「橋林文書」に記された人物については“方”と“為”の草書における誤記であるとするとともに同文書の記述に比定可能な人物は長野為業しかいないことや他にも様々な事実を混同された記述があることを指摘して、為業の十三回忌である延徳元年に橋林寺が建立されたことを示すとする[9]
  13. ^ 『箕郷町誌』の系譜では憲業が兄で、弟を信業とする[20]

出典

  1. ^ 近藤 1985, p. [要ページ番号].
  2. ^ a b c d e f g h i j 近藤 1985.
  3. ^ a b 「松陰私語」
  4. ^ 黒田 2011, p. [要ページ番号].
  5. ^ 黒田 2013, p. [要ページ番号], §. 戦国期上野長野氏の動向.
  6. ^ 群馬県史 1986, No.1958「長尾顕景書状」.
  7. ^ 大永7年12月16日の総社長尾顕景から越後長尾為景への書状[6]
  8. ^ 黒田 2009, p. [要ページ番号].
  9. ^ a b c d e f g h i 黒田 2011.
  10. ^ 黒田 2013.
  11. ^ 群馬県史 1986, No.1957「長野方斎書状」.
  12. ^ 平井ほか 1979, p. [要ページ番号].
  13. ^ 飯森 2008, 「長野氏」.
  14. ^ 箕郷町誌編纂委員会 1975, p. [要ページ番号].
  15. ^ 群馬県史 1989, p. [要ページ番号].
  16. ^ 山田 2011, pp. 87-88.
  17. ^ a b c d e 黒田 2013, §. 戦国期上野長野氏の動向.
  18. ^ 前橋市史編さん委員会 1971, p. [要ページ番号].
  19. ^ a b 平井ほか 1979.
  20. ^ a b c d 箕郷町誌編纂委員会 1975.
  21. ^ a b 前橋市史編さん委員会 1971.
  22. ^ 久保田 2006b, p. [要ページ番号].
  23. ^ 栗原 1996, p. [要ページ番号].
  24. ^ a b 久保田 2006b.
  25. ^ 群馬県教育委員会 1989, p. [要ページ番号].
  26. ^ 久保田 1996, p. [要ページ番号].
  27. ^ 木暮 2002, p. [要ページ番号].
  28. ^ a b c 木暮 2002.
  29. ^ 高崎市市史編さん委員会 2000, p. [要ページ番号].
  30. ^ a b 「長昌寺記録」より採用。
  31. ^ 群馬県史編さん委員会 1989.
  32. ^ 久保田 2006a, §. 「長野方業」.


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