鷹留長野氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 15:13 UTC 版)
業尚や憲業のころ長野氏は鷹留城にあり、のち箕輪城に移ったともいわれる。その鷹留城は業尚の築城と伝え、箕輪城時代はその支城として機能した。憲業のあと鷹留城には業正の兄の三河守業氏が入った。この子孫を鷹留長野氏という。 業氏は永禄5年(1562年)5月8日に、武田方へと離反した大戸城(城主は大戸氏)を攻めた際に戦死した。跡を長男の業通が継いだ。 永禄9年(1566年)の箕輪城落城のときには、鷹留城には業通や弟の大森別当・業固・勝業が篭っていたが、武田軍に箕輪城との連携を遮断され、内応よって箕輪より先に陥落、城主の業通は長男とともに越後国に落ち延び、鷹留長野一族は離散して没落した。なお業氏の子・勝業はこの戦いの中で死去したという。
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