箕輪落城後の長野一族
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長野氏業の子・亀寿は落城時に家臣の藤井忠安・阿保清勝に伴われ脱出、のち出家して極楽院鎮良と名乗り、阿保清勝の姪を妻として5子があったと伝わる。なお極楽院鎮良は徳川家から印状を授与されている。また別の長野系図によれば氏業の子には業忠という子があり、浜川の善長院を建立したという。 鷹留長野氏では、業通の次男・業茂が落城後に仏門に入り、珠山玄宝となって和田山長純寺住職、のち井伊氏に従い移住して彦根長純寺を開いたと伝わる(大雲寺記録)。業氏の次男・業亮は、長野氏が健在の頃から和田山大雲寺にあり、大森別当・曇廊などという。落城後に住職となり、井伊氏の移動に従って彦根大雲寺を開いた。 彦根宗安寺の開山・成誉典応も鷹留長野氏で、「大雲寺寺歴書」(天保9年)では曇廊和尚(業亮)の出家前の子だとされる。「宗安寺記」では珠山玄宝の子とされる。俗名は業連とも。 また彦根藩井伊家の記録によると、次席家老の長野民部は長野一族だという。家伝では業正の子・業親の子が伝蔵(業実、業真)といい、武田氏の滅亡後、生母が井伊直政と知己だったことから井伊氏に仕えて4000石を得たとされる。『新編高崎市史 通史編2』は、業親が長野氏の系図にみえないため、業正の庶子か養子ではないかとする。一方、徳川家が長野業正の子孫を探した時、長野氏関係の寺院が連署で天保9年(1838年)に提出した報告によると、民部は珠山玄宝の出家前にもうけた次男・業源のことだとされている。
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