箕輪落城後の長野一族とは? わかりやすく解説

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箕輪落城後の長野一族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 15:13 UTC 版)

上野長野氏」の記事における「箕輪落城後の長野一族」の解説

長野氏業の子・亀寿は落城時に家臣藤井忠安・阿保清勝伴われ脱出、のち出家して極楽院鎮良と名乗り阿保清勝の姪を妻として5子があったと伝わる。なお極楽院鎮良は徳川家から印状を授与されている。また別の長野系図によれば氏業の子には業忠という子があり、浜川の善長院を建立したという。 鷹留長野氏では、業通の次男・業茂が落城後に仏門入り珠山玄宝となって和田山長純寺住職、のち井伊氏従い移住して彦根長純寺開いたと伝わる(大雲寺記録)。業氏の次男・業亮は、長野氏健在の頃から和田山大雲寺にあり、大森別当・曇廊などという。落城後に住職となり、井伊氏移動に従って彦根大雲寺開いた彦根宗安寺開山成誉典応も鷹留長野氏で、「大雲寺寺歴書」(天保9年)では曇廊和尚(業亮)の出家前の子とされる。「宗安寺記」では珠山玄宝の子とされる俗名は業連とも。 また彦根藩井伊家記録によると、次席家老長野民部長野一族だという。家伝では業正の子・業親の子が伝(業実、業真)といい、武田氏の滅亡後生母井伊直政知己だったことから井伊氏仕えて4000石を得たとされる。『新編高崎市史 通史編2』は、業親が長野氏系図みえないため、業正の庶子養子ではないかとする。一方徳川家長野業正の子孫を探した時、長野氏関係の寺院連署天保9年1838年)に提出した報告によると、民部珠山玄宝の出家前もうけた次男・業源のことだとされている。

※この「箕輪落城後の長野一族」の解説は、「上野長野氏」の解説の一部です。
「箕輪落城後の長野一族」を含む「上野長野氏」の記事については、「上野長野氏」の概要を参照ください。

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