箕輪長野氏の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/12 07:20 UTC 版)
永正9年(1512年)戦国時代中期、当地を支配する長野氏の長野業尚によって築かれた。また、大永6年(1526年)業尚の子の信業によって築かれたという説もある。信業の代には、守護代であり山内家宰の白井・総社長尾氏を凌駕する勢力を持っていた。 戦国時代の上野には関東管領山内上杉家が存在したが、永禄元年(1558年)、上杉憲政が越後へ亡命した後は、相模を本拠とする北条氏康、甲斐の武田信玄、越後の上杉政虎(上杉憲政の名跡を継いだ)が侵攻を繰り返す場であった。このようななかで信業の子長野業正は、上杉氏の後ろ盾を得て、箕輪衆と呼ばれる在郷武士団をよく束ね、名君と謳われて長野氏全盛時代を築き、最大の版図を有するに至った。業正の代にはまた、武田信玄の侵略がたびたび繰り返されたが、これをよく退け安定した地位を保った。
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