箕輪城落城年の問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 15:32 UTC 版)
長野氏の本拠箕輪城落城の年次は落城に関する古文書が無く、後代の戦記物『箕輪軍記』『箕輪記』『上州治乱記』『関八州古戦録』『甲陽軍鑑』などに記載された永禄6年落城説が通説であった。しかし、近年の研究により、同時代史料である『長年寺古文書』(高崎市榛名町)にある永禄9年(1566年)に落城した説が有力となった。このため、永禄6年から信綱が諸国を往来していたという伝承や印可状・目録が問題となっている。永禄7年・永禄8年は武田氏侵攻により、長野氏側の諸城(倉賀野城、松井田城、安中城など)が防衛戦、落城していった年であり、この時期に長野家臣と伝来する信綱が主君の元を離れるのは不自然のためである。『新修高崎市史』では永禄9年の落城後に諸国流浪をしたのではとしている。
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