諸国流浪と剣術指南とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 諸国流浪と剣術指南の意味・解説 

諸国流浪と剣術指南

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 15:32 UTC 版)

上泉信綱」の記事における「諸国流浪と剣術指南」の解説

江戸時代の『箕輪軍記』・『関八州古戦録』・『甲陽軍鑑』などによると、箕輪落城後、新陰流普及させるため門弟と共に諸国流浪の旅に出るという。同行門弟について、『本朝武芸小伝』は神後伊豆守疋田文五郎など、『柳生家文書』では疋田五郎鈴木意伯従ったとされる諸国流浪年代は、『本朝武芸小伝』によると永禄6年1563年上洛という。『甲陽軍鑑』には古河公方足利義氏招かれと書かれるが、真偽不明。『武功雑記』には、信綱は上洛帰途山本勘助会い同行していた弟子疋田勘助対戦してこれを破ったとある。ただし疋田動向勘助没年などからフィクションらしいとされる。 「兵法由来覚」では、信綱一行本国出たのち伊勢神宮向かい、そこで柳生のことを聞き大和赴いたとする。年次記載は無い。一方正伝新陰流』では、京洛へ向かう途中で伊勢北畠具教訪ね、彼から奈良宝蔵院胤栄のことを聞いてそこへ向かい胤栄柳生宗厳出会いこれを下したとする。永禄6年ことという。 永禄8年には柳生宗厳胤栄印可状与え永禄10年には目録丸目蔵人佐与えた。「兵法由来覚」では疋田景兼香坂要も免状受けたとする。 なお、確かな同時代史料である山科言継日記言継卿記』にある上洛期間は永禄12年1月15日 - 元亀2年7月21日までである。元亀2年7月21日に京を去り故郷へ向かったとある。 箕輪城落城年の問題 長野氏本拠箕輪城落城年次落城に関する古文書無く後代戦記物『箕輪軍記』『箕輪記』『上州治乱記』『関八州古戦録』『甲陽軍鑑』などに記載され永禄6年落城説が通説であった。しかし、近年の研究により、同時代史料である『長年寺古文書』(高崎市榛名町)にある永禄9年1566年)に落城した説が有力となったこのため永禄6年から信綱が諸国往来していたという伝承印可状目録問題となっている。永禄7年永禄8年武田氏侵攻により、長野氏側の諸城倉賀野城松井田城安中城など)が防衛戦落城ていった年であり、この時期長野家臣伝来する信綱が主君の元を離れるのは不自然のためである。『新修高崎市史』では永禄9年落城後に諸国流浪をしたのではとしている。

※この「諸国流浪と剣術指南」の解説は、「上泉信綱」の解説の一部です。
「諸国流浪と剣術指南」を含む「上泉信綱」の記事については、「上泉信綱」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「諸国流浪と剣術指南」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「諸国流浪と剣術指南」の関連用語

諸国流浪と剣術指南のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



諸国流浪と剣術指南のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの上泉信綱 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS