柳生家とは? わかりやすく解説

柳生氏

(柳生家 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/21 09:40 UTC 版)

柳生氏
地楡に雀

柳生笠
本姓 菅原氏
家祖 柳生永家
種別 武家
華族子爵
出身地 大和国添上郡柳生郷
主な根拠地 大和国添上郡柳生郷
尾張国
東京市渋谷区代々木など
著名な人物 柳生宗厳
柳生宗矩
柳生三厳
支流、分家 中坊氏(武家)
凡例 / Category:日本の氏族

柳生氏(やぎゅうし)は、武家華族だった日本氏族柳生宗矩徳川秀忠徳川家光の剣法指南役として台頭して柳生藩主となり、維新後、華族の子爵に列する[1]

歴史

出自

新井白石が作成した系譜の『藩翰譜』(または後世の『寛政重修諸家譜』)によると、柳生氏の姓は菅原姓とされ、菅原道真が祖先とも言われている。明治時代の宗族制においても、柳生藩主家は菅原氏後裔(第39類)とされている。一方で、現代の尾張柳生家は平氏を称している[2]。使用の家紋は「地楡に雀」、替紋に「柳生笠」。

実際の柳生氏の事項が明らかになるのは、南北期の播磨守永珍(別名:宗珍、大膳亮永家の子とされる)の頃からで、柳生家の家譜である『玉栄拾遺』によると、元弘3年(1331年)に、南朝方として、六波羅探題北条仲時時益の軍勢と戦った永珍は戦功によって、後醍醐天皇から賜った大和国小楊生庄(大楊生庄とも)の領主となり、柳生氏と名乗ったことから始まるとされる(ただし、『玉栄拾遺』の記述自体も伝承の域を出ないという)。

柳生家の発祥地は大和国添上郡柳生郷(現在の奈良市柳生地区)で、大和国北部にある。また「楊生」・「夜岐布」・「夜支布」・「養父」とも記され、いずれも「やぎふ(やぎう)」と訓むという。

戦国期に、上泉信綱から新陰流を相伝された柳生宗厳(石舟斎)は、永珍(宗珍)から8代目の子孫に当たる人物である。

大名への出世

室町時代の柳生氏の動向は殆ど不明であり、木沢長政筒井順昭に属する小領主にすぎなかった。しかし永禄2年(1559年松永久秀の大和侵攻を機に柳生宗厳が久秀に仕官すると、宗厳は久秀の取次を務めるなど信頼を深めていく。久秀が織田信長と同盟を結ぶと、外部の信長からも認知される存在となり、久秀の下で興福寺在陣衆を指揮するなど松永軍の軍事的基盤にもなる[3]。しかし天正5年(1577年)に久秀が織田信長と争って滅亡すると、代わって大和を守護した筒井順慶にも従わず、縁の深い十市遠長と結託した(『多聞院日記』)。さらに豊臣秀吉太閤検地によって隠田の罪で2,000石の所領を没収されるなど、次第に落ちぶれていった。

領主として没落する一方で、宗厳は上泉より相伝を受けた剣豪として名声を得て、その門下には毛利輝元などの大名も名を連ねた[4]文禄3年(1594年5月3日には、黒田長政の仲介により当時秀吉に次ぐ実力者であった徳川家康と面会し、家康の前で「無刀取り」を披露したことにより、兵法指南役に迎えたいと申し出を受ける。宗厳は当時、すでに66歳という老齢だったため、これを辞退し代わりに、五男の柳生宗矩を指南役として推挙したのである。そのことが、『玉栄拾遺』にも詳細に記されている。

文禄甲午の年、聚楽紫竹村にて宗厳公の剣術始て神君(徳川家康)上覧。木刀を持玉ひ。宗厳是を執るべしと上意あり。即ち公無刀にて執り給ふ。其時神君後ろへ倒れ玉はんとし、上手なり向後師たるべしとの上意の上、景則の刀を賜ひて誓詞を辱くす。時に5月3日也。且俸禄200石を賜ふ。

なにはともあれ、信長・秀吉時代に落ちぶれた柳生氏は、家康時代に再び世に出ることとなったのである。

宗矩の台頭

宗矩は宗厳の五男である。宗矩が徳川氏に仕えていたのは、長男の柳生厳勝は久秀配下として筒井順慶と戦ったとき、鉄砲により戦傷を負い、次男の柳生久斎と三男の柳生徳斎は僧侶となり、四男の柳生五郎右衛門中村一氏に仕官していたからである。

家康の下、宗矩は、大いに活躍した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康の命を受けて大和の豪族の調略に従事し、西軍の後方攪乱作戦も務めた。翌年、その功績により旧領2,000石に加えて新たに1,000石を加増され、徳川秀忠の兵法指南役となる。宗矩は秀忠からの信任が厚かったと言われている。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では徳川軍の大和国の道案内役を務め、翌年の大坂夏の陣では秀忠の身辺警護を務め、敵兵7名を斬殺した。

元和7年(1621年)からは徳川家光の兵法指南役となり、寛永6年(1629年)には従五位下但馬守を叙任する。寛永9年(1632年)には井上政重らと共に惣目付(後の大目付)に任じられ、3,000石を加増された。寛永13年(1636年)には4,000石を加増され、合計1万石の大名となる(柳生藩)。寛永19年(1639年)にも2,000石、翌年にも500石を加増され、合計して1万2,500石を領する大名となった。

宗矩と同時期に将軍家の兵法指南役であった一刀流の小野忠明(御子神典膳)の所領は600石ほどであった。一方の宗矩は家康・秀忠・家光の徳川三代に仕えて大名にまで栄進したのだから、相当の信任を受けていたことがうかがえる。

柳生藩

宗矩の死後、遺領は3人の息子(三厳宗冬列堂義仙)によって分知されたため、柳生氏は一代で旗本に戻るが、三厳の死後に家督を相続した宗冬の代に再び大名に復帰する。以後、明治維新まで柳生藩を領した。しかし藩主が江戸に定府していたこともあって、城下の発展はあまり見られなかった[5]

宗家の他に、尾張藩に仕えた宗矩の甥の柳生利厳(兵庫助)の系統(尾張柳生)がある。

明治以降

最後の柳生藩主柳生俊郎は、明治2年(1869年)6月の版籍奉還で柳生藩知事に転じるとともに華族に列し、明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めた[6]

版籍奉還の際に定められた家禄は現米で571石[7][8][注釈 1]。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄の代わりに支給された金禄公債の額は1万9846円70銭8厘(華族受給者中228位)[10]。当時の俊郎の住居は東京府北豊島郡金杉村[11]

華族令施行後の1884年(明治17年)7月8日に旧小藩知事事[注釈 2]として俊郎が子爵位が授けられた[12][13]

俊郎は大正4年に隠居し、婿養子(小笠原長守の三男)の俊久が子爵位を継承[14]。彼は歩兵大佐まで昇進した陸軍軍人であり、退役後には貴族院の子爵議員に選出された。昭和前期の柳生子爵家の住居は東京市渋谷区代々木にあった[1]

昭和16年に俊久が死去した後、息子の重五が子爵位を継承した[14]

一方、尾張柳生家は、新陰流の正統な道統を継ぐ立場として現在も新陰流宗家を称している[2]

系譜

凡例

  1. 実線は実子、点線は養子
  2. 数字は宗家家督継承順。括弧内の数字は藩主継承順。ローマ数字は尾張柳生家督継承順。
  3. 太字は柳生藩主。斜体は尾張柳生家当主。

脚注

注釈

  1. ^ 明治2年6月17日の版籍奉還時、藩財政と藩知事の個人財産の分離のため、藩の実収入(現米)の十分の一をもって藩知事個人の家禄と定められた[9]
  2. ^ 旧柳生藩は現米5710石(表高1万石)で現米5万石未満の旧小藩に該当[12]

出典

  1. ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 191.
  2. ^ a b 柳生新陰流公式ホームページ「柳生新陰流道統」
  3. ^ 天野忠幸 2018 p.164
  4. ^ 本林義範、「柳生宗厳兵法伝書考 -毛利博物館所蔵資料を中心として-」『論叢アジアの文化と思想』 1995年 4巻 p.27-45, アジアの文化と思想の会
  5. ^ 藩名・旧国名がわかる事典『柳生藩』 - コトバンク
  6. ^ 新田完三 1984, p. 852.
  7. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1985, p. 25.
  8. ^ 石川健次郎 1972, p. 52.
  9. ^ 刑部芳則 2014, p. 107.
  10. ^ 石川健次郎 1972, p. 51.
  11. ^ 石井孝太郎 1881, p. や之部.
  12. ^ a b 浅見雅男 1994, p. 150.
  13. ^ 小田部雄次 2006, p. 338.
  14. ^ a b 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 750.

参考文献

関連項目

外部リンク


柳生家

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柳生十兵衛あばれ旅」の記事における「柳生家」の解説

千葉真一柳生十兵衛三厳柳生新陰流剣豪で、その名は天下広く知れ渡っている。太平世に到底納まらない器と評され (1)、譜代大名とその家臣にも知己が多い (15)。武芸十八般で、裏柳生一員であることから、体術忍者比肩する (10, 18, 24)。一時的に視力低下しても、稽古して聴力だけで戦う技量がある (13)。子供助けて峡谷の崖から滑落するも、子供ケガを負わさず、一日寝ていて全快する頑強な身体を持つ (23)。扮装は皮をあしらった黒を基調したもので、鞘の端にも仕込み刀入った太刀脇差兜割り鎧通し)、手甲脛当てには手裏剣忍ばせ、敵により鎖帷子纏う (14 - 19)。その推理力事件の裏黒幕突き止め指示する。「柳生の剣は一殺多生戦わずして済めば、越したことはない」が信条で (22)、説得試み可能な限り戦い避けようとする (14, 16, 22)。幻天狗権兵衛爺さんに、変装して敵を晦まし、気が触れたような言動乱心者を装うが (1, 4 - 5, 16, 21)、島津宰相松本藩などは「偽りの乱心をし、十兵衛こそ真の巡検使」と見抜いていた (4, 15)。宗矩の立場心情慮るも (22, 26)、行き過ぎた幕府第一姿勢窘める (1, 7, 15, 17, 26)。徳川家光にも堂々と直言し (5)、子供には優しい (9, 19, 21, 23)。掟に反した裏柳生厳しく接するが (10, 17)、落命すると悲しみ (14, 17)、時に慟哭し (24 - 25)、忍びを人と思わぬ者には怒りを露にする (24)。一族大事にし無理させず (14, 25)、生き延びる大切さ説き (26)、供を拒んで単身で斬りこむこともあった (8, 13, 26)。 出生大目付稲葉内膳正が勘づき、宗矩の命令を「斬らせん。哀れな母親守れぬ、そんな柳生なら潰してしまえ」と拒否 (17)。出生の秘密知り動揺するに「おまえは柳生の子だ」と諭し親子名乗りをするよう促した (17)。幼馴染巡検使暗殺関わり悩んでいた又平には、「弥平次を救えるのはおまえだけだ」と説く (22)。崖から滑落した南郷覚之進を見捨てず救出し手当する (25)。意識戻った覚之進から戦い挑まれるが、「いつまで付け狙う良い。だが今討たれるわけにはいかん」と立ち去った (25)。 島津宰相家光暗殺企んだにも関わらず政治決着つけたことに承服しかね、乱心者として薩摩屋敷単身斬りこみ、「将軍家暗殺謀り天下奪おうとした大罪」と島津宰相一刀両断役目終え江戸へ戻らず旅立とうとするが、「ついていきたい」と懇願され、翌日辰の刻伏見尼寺待ち合わせよう伝える。武家娘の姿になり訪れると、十兵衛現れず、実母美音暮していた。ふたりの再会を影ながら見守った後、どこへとなく旅へ出る。(26) 志穂美悦子柳生 十兵衛の妹で、「柳生じゃじゃ馬」と云われる柳生新陰流達人。この異名気に入っており (11)、忍術心得もある (26)。柳生家の実の娘でなく、養女と知るのは十兵衛と宗矩のみ (1)。十兵衛には兄以上の感情抱いている (1, 4, 8, 12, 26)。公儀巡検使に任ぜられ、男装して柳生縫之介」を名乗り中山道巡検し京を目指す (1)。幻天狗正体十兵衛乱心していないと喜び深谷宿以降十兵衛指示従い巡検していき (4)、娘姿に戻ることもある (6 - 7, 11, 14)。敵との戦い以外にも風呂場女性バレそうに (4, 11)、武家娘に求婚される危機陥る (12)。芦田宿では幻天狗扮して現れ十兵衛取り囲んでいた役人らへ面を取り一喝十兵衛に「幻天狗譲ろう」と褒められた (13)。十兵衛と宗矩の意が異なった時に丸く収め (15)、尾張藩に娘と侮られても堂々と対し (16)、巡検使面子拘らず又平助け (22)、阿里助を咎める朱美諭すなど (25)、人として成長していく。 奈良井宿で同じギヤマンの鈴(一対夫婦鈴)を持つ、旅籠内議美音知り合う自分十八年前宇都宮城釣天井事件改易となった本多正純末娘で、美音生母であることを偶然耳にし、驚愕のあまり動揺するが、十兵衛に諭され落ち着く旅立つ前に娘姿を美音見せていたとき、大目付稲葉内膳正配下乱入し美音捕縛助けようとするものの、太郎兵衛に「柳生家を取り潰すおつもりか」と具申され、家か母かで悩む。十兵衛救出され美音親子名乗りをするよう促されるが、母は尼となり旅立ち役目終わった会いに行く」と誓い見送る。(17) 京で島津宰相へ天下取りの野望をしかと見届けた」と突きつけ巡検滞りなく終える。十兵衛から「女として生きていけ」と言われ、旅を続けるという十兵衛に「柳生の娘でないから、江戸へ戻れない。ついていきたい」と懇願伏見尼寺翌日待ち合わせ武家娘の姿に戻り訪れるものの、十兵衛現れず、実母美音再会し母を抱きしめ喜ぶ。(26) 山村聡柳生但馬守宗矩※ (1, 5, 7, 10, 12, 15, 17, 22 - 26) 十兵衛又平又十郎父親で、将軍家剣術指南十兵衛中山道巡検使にすると島津宰相薩摩藩など反幕府勢力警戒されるため、乱心者にし油断させ、巡検を行うと将軍徳川家光上申 (1)。世情安定するまで巡検使は、柳生家が担うという信念抱いている (1)。には巡検使役目終えたら、嫁いでほしいと望む (1)。信条十兵衛異なるものの (7, 15, 17, 26)、十兵衛豪放磊落生き方認め (22, 26)、絆は強い (1, 5, 7, 22 - 24, 26)。成長目を細め (15)、朱実ねぎらいの言葉をかける (25)、穏やかで優しい一面と、「先んずれば、人を制す」という政治家としての非情な一面を持つ (17, 26)。十八年前宇都宮城釣天井事件改易となった本多正純一族処罰見届けたが、正室美音と幼い娘・ゆきを救い、ゆきを柳生家で引き取り名付け育てる (17, 26)。政敵大目付稲葉内膳正出生嗅ぎつけたため、十兵衛に「柳生の子だ。親子名乗りをさせるな。いざというときには美音を斬れ。巡検使天下安泰のため」と厳命 (17)。家光島津宰相へ政治決着つけたことを慮り承服しない十兵衛へ「堪えるのだ」と諭す (26)。 真田広之又平※ (1 - 2, 4, 12, 22 - 26) 十兵衛腹違いの弟で、元は根来衆小太刀二刀流使い手で、本作では髷を結っている。子供の頃根来の里を離れたので、根来忍び文字読めない (22)。柳生屋敷寄りつかず根無し草の生活を好むが、乱心聞き信じられ十兵衛探す (1)。望月宿夢乃お駒より片思いされ (12)、再会する度に抱きつかれる (22 - 23, 25 - 26)。赤坂宿巡検使暗殺請け負っていた幼馴染兄妹弥平次とかすみに再会し (22)、十兵衛裏柳生協力でふたりに真実示そうとする (22)。関ヶ原宿朽木流玄の妖術罹り十兵衛襲った (23)。将軍上洛近づき守山宿近辺から京にかけて、十兵衛指図たちを支援 (24 - 26)。江戸へ戻らずひとり旅立つ十兵衛について行く (26)。 伊庭剛柳生又十郎宗冬 (25 - 26) 十兵衛実弟の兄。柳生の里守っているが (1)、たちが南郷覚之進に雇われ甲賀忍者襲われた時、幻天狗扮して木から飛び降り、敵を蹴散らす (25)。京の動静探った後に、宗矩の元へ向かう途中であった (25)。直訴して家光影武者となったが、薩摩隠密組に刺され重傷負い、死の淵を彷徨う (26)。満身創痍ありながら薩摩屋敷へ斬りこもうとする十兵衛についていこうとする (26)。

※この「柳生家」の解説は、「柳生十兵衛あばれ旅」の解説の一部です。
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