「柳生宗家」について
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現在、利厳の子孫である尾張柳生家は、正しい柳生宗家(本家)は嫡流の自家であり、宗矩の家(江戸柳生家)は分家であると主張している。その一方、この主張に対して以下の問題点が指摘される。 戦国時代において、宗家を継ぐ嫡男は必ずしも長男のことを指すとは限らず、当主の決定によって変えられることが多々あった。柳生家においても、関が原の戦いの後、代々の所領である柳生庄を取り戻した宗厳は、慶長6年、その全てを宗矩一人に継がせた。これにより宗矩の石高は元々の1000石に柳生庄2000石が加わり、計3000石となっている。これについて尾張柳生家の子孫である柳生厳長は、自著『正傳新陰流』において、「宗厳の長男である厳勝(新次郎)は宗厳から惣領分の所領を貰った」と主張しているが、もしそうであれば、厳勝の嫡男である利厳が、加藤清正に仕官するために家を出たのは不自然である(同時期に利厳の弟である権右衛門も伊達政宗に仕官しているため、厳勝の跡を継ぐ男子が一人も残らないことになる)。 『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』などの江戸時代の記録において、柳生宗家とされているのは一貫して宗矩の江戸柳生家である。これに対し、柳生厳長は自著『正傳新陰流』にて、これは事実が歪曲されたものだと主張している。 この尾張柳生家が柳生宗家であるとする主張は、当の尾張柳生家の史料でも確認できず、資料上に登場し始めるのは、第20世当主の柳生厳長による著作(『柳生流兵法と道統』『正傳新陰流』など)が出始めた大正以降である。
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