「柳生宗家」についてとは? わかりやすく解説

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「柳生宗家」について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:58 UTC 版)

柳生氏」の記事における「「柳生宗家」について」の解説

現在、利厳の子孫である尾張柳生家は、正し柳生宗家本家)は嫡流自家であり、宗矩の家(江戸柳生家)は分家であると主張している。その一方、この主張に対して以下の問題点指摘される戦国時代において、宗家を継ぐ嫡男は必ずしも長男のことを指すとは限らず当主決定によって変えられることが多々あった。柳生家においても、関が原の戦いの後、代々所領である柳生庄を取り戻した宗厳は、慶長6年、その全てを宗矩一人に継がせた。これにより宗矩の石高は元々の1000石に柳生2000石が加わり、計3000となっている。これについて尾張柳生家の子孫である柳生厳長は、自著正傳新陰流』において、「宗厳長男である厳勝(新次郎)は宗厳から惣領分所領貰った」と主張しているが、もしそうであれば、厳勝の嫡男である利厳が、加藤清正仕官するために家を出たのは不自然である(同時期に利厳の弟である右衛門伊達政宗仕官しているため、厳勝の跡を継ぐ男子一人残らないことになる)。 『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』などの江戸時代の記録において、柳生宗家とされているのは一貫して宗矩の江戸柳生家である。これに対し柳生厳長は自著正傳新陰流』にて、これは事実歪曲されたものだと主張している。 この尾張柳生家柳生宗家であるとする主張は、当の尾張柳生家史料でも確認できず、資料上に登場し始めるのは、第20当主柳生厳長による著作(『柳生流兵法道統』『正傳新陰流』など)が出始め大正以降である。

※この「「柳生宗家」について」の解説は、「柳生氏」の解説の一部です。
「「柳生宗家」について」を含む「柳生氏」の記事については、「柳生氏」の概要を参照ください。

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