江戸時代の記録
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「梨の木峠 (岩手県)」の記事における「江戸時代の記録」の解説
菅江真澄は1785年(天明5年)この峠を越えてその様子を「けふの狭布」に記録している。「4月、昨夜から雨が降る。梨木峠に向かうと、牛を追う男が今日は百里を行って宿を取るから急げと先ゆく子らに言う。…牛馬の行き交いが頻繁だ。道は水田の様ににかるみ、すねまで深く入って行き悩んだ。そのため、まだ日が高いうちに曲田という集落に宿を取った」(ここで言う百里は11km弱) 1790年(寛政2年)高山彦九郎は「北行日記」で「…下り曲田村、橋を渡りて小坂を経て新町六十軒斗(ばか)り…」と記録している。
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江戸時代の記録
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小城森(小白森)という山の上に泉水がある。3間から5間ばかりもあろうか。深さは4尺ぐらいの清水の底が見える。この水は土用でも乾かないが、御用以外で水を汲めば天候が荒れる。御用だとしても、物を洗ったり、何かを捨てればたちまち風雨になる。これは拠人(こにん、秋田藩の藩境を守る役人)始め、村の者がことごとく言っている。台の上に田の形があって、それが田代と名付けた理由だ。
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江戸時代の記録
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古川古松軒の著書『東遊雑記』に「板場武助と称す豪家あり。家造りも至って美々しく、かかる辺鄙にも都がたにも稀なる家もあるやとおのおの立ち止まり見物せしほどなり。高一万石余り、富饒もて、今佐竹候御用達にて、鑓・乗馬等御免にて士格なり」と、古川古松軒が感心するほどの屋敷を岩瀬村にかまえる一方、現在の秋田市土崎港中央4丁目2には佐竹家から屋敷を拝領し、港の警衛を行いつつ、魚物問屋なども営んでいた。 高山彦九郎も1790年この地方を移動し『北行記』に伊多波武助のことを記録している。そこでは平鉱山(太良鉱山)が1745年から1749年までの5年間、伊多波武助が受山として稼業したことや、岩瀬川の近くにあった松坂屋武助(伊多波武助)の富家のことを記述している。(太良鉱山跡地は現在個人所有のため立ち入りは出来ないが、その跡地には伊多波武助の石の宝塔が現存している) また、伊能忠敬による『測量日記』(1802年)にも、岩瀬村にあった伊多波武助の屋敷のことが記録されている。岩瀬村には200軒ほどの家屋敷があり、その中に門塀がある伊多波武助の屋敷があり、久保田藩から500石で家中になっていることや、元は松坂屋といって遠国から来た商人であったことを記している。
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