江戸時代の論議
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1691年(元禄4年)、水戸藩の丸山可澄が、徳川光圀の命を受けて奥羽各地の史料調査を行い、多賀城の壺碑も調べた後に、七戸から野辺地に向かう途中、石文村、坪川などを通り、小山の石文神社に参拝した。縁起を見たいと思って尋ねたが果たせなかったという。丸山はそのことを『奥羽道記(おううみちのき)』に記しているが、その中につぼのいしぶみという名は出て来ない。 元禄(1688年-1704年)の頃、南部藩を漫遊し花巻に住んだ松井道圓という医師がいて、『吾妻むかし物語』を著した。その中に、「奥羽名所旧跡所々相違ある事」という一条がある。壺碑、野田の玉川、磐手の山など、仙台領にも南部領にもあるが、南部領内の方が理があるという趣旨の文である。「宮城郡市川の立石といへるを壺の石碑と名づくるは後人附会の説なるべし。故は立石を石文とはいふべし、壺とはいかでいふべき。実は糠部郡七戸の内壺村にこれあり。碑名今は絶えたり。」と記している。 18世紀の中頃、南部藩の学者清水秋全が、『名所追考抜書』という書の余白に自分の意見を書き入れている。「寛延3年(1750年)春3月、君命を蒙り、仙台の石碑真偽矣を見にまかりしに、其処に古城のあとあり、図に記して奉りぬ。予、石碑の図を見侍るに是は東西南北の遠近を記せるのみにて貴む可き義みえず。壺碑、南部七戸に坪村にありて古へよりに名処、証歌に明か也。殊に勝れたる文あり。日本の中央と有り。意味深長にして尊む可し。東極にありて中央と云事誠に故ある哉。」とした。また本文に「坪村の名は後生の人私に付けし事か」と書いているのに対し「坪村在名何ぞ私になづくべき。古よりの石ふみ有、出所明か也。石碑は仙台に幾らありといへども、壺といふ在名あらざる故偽也。」とし「仙台の曲(くせ)にて、ややもすれば南部御領の名所を誠しやかに取り、美を尽くし置故に、廻国のよすてびと亦は虚実を知らざる類族(たぐいのやから)、仙台の方にある似たる名所を実(まこと)と思ふは、目無く心無く文盲に至り言語に絶たり。」と記している。この時点では南部藩のつぼのいしぶみは世の中に知られていなかったが、その後、まもなく水戸の地理学者の長久保赤水の『東奥紀行』が著され、これがかなりの影響を世の中に与えた。 1778年(安永7年)4月、平沢旭山が多賀城を訪れて多賀城碑を見て、城跡の基礎石を確かめた。5月に七戸に至って、坪石文のことを聞き、坪村、坪川、千曳などの地名を知り、坪石文を尋ねて歩いたが見ることはできなかった。彼はこれを『遊奥暦』に記している。 1785年(天明5年)橘南谿が東国を旅し『東遊記』をまとめた。その中で、多賀城碑について詳記した後に、東の壺碑というものが南部の壺山という山に存すること、その石碑は氏神として祭られ、みだりに開くことがないので、拓本が世に広まることもないこと、碑面の上部に東という大字を彫りつけてあること、多賀城碑は西という大字を有するから、東の碑も当然あるはずだとした。この説は後に武田信英(『草廬漫筆』、19世紀中葉)などが継承している。 1788年(天明8年)には古川古松軒、菅江真澄などが相次いで南部藩を訪れ、壺碑は南部の千引明神に埋められているものが真碑であることを書き残している。 石原正明によって享和年間(1801年)から文化元年(1804年)に著された『年々随筆』や、栗原信充によって1819年(文政2年)に著された『柳庵随筆』では、多賀城碑は壺碑ではなく、南部の碑が本物である由を書いている。 1806年(文化3年)に南部藩内で上梓され、三輪秀福らが著した『旧蹟遺聞』の巻4の「壺碑、千曳神社」の項では「つぼの碑は北郡七戸と野辺地との間に、壺村、石文村といふところあり。この所にむかし碑ありしゆゑに壺碑と名づけしといひ伝ふ。今はその碑なし。」としている。 江戸時代後期の南部藩の儒学者、市原篤焉が編纂した『篤焉家訓』でも「七戸の壺と云在名正しきが上に、壺川と云うる古き名の残りし川に、石面四、五丈計なる岩あり。其岩のある所を杉渕と云。昔は川岸に此岩あり。今は川岸崩れて岩のなかば川水に横たわる。日本中央といへる文字も土中の方に成たるへし。壺の在名(小村なり、高三十石)同壺川ある上は不可疑、正しき碑也」と朱書きされていて、少なくとも江戸時代後期には南部壺碑が川の中にあったとする説は存在しており、谷底にあったとする巨石の記述も複数あった。
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