江戸時代の身分体系
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 09:50 UTC 版)
上記のように、士農工商の職業概念は、実際の身分制度とは大きく異なっている。 江戸時代の諸制度に実際に現れる身分は、「士」(武士)を上位にし、農、商ではなく、「百姓」と「町人」を並べるものであった。また「工」という概念はなく、町に住む職人は町人、村に住む職人は百姓とされた。この制度では、百姓を村単位で、町人を町単位で把握し、両者の間に上下関係はなかった。しかし百姓・町人身分は「平人」身分としてくくられ、「平人」が武士になることは多くなく、また、「平人」が「えた」「ひにん」などになることはめったになかった。 「穢多」「非人」などと呼ばれた人々は、公家や武士はもちろん百姓や町人からも一線を画されており、彼らは「人外」、すなわち同じ人間ではないかのようにみられ、人づきあいから「排除」されていたが、身分制度上の分類であり人別帳の枠内にある。 なお、百姓の生業は農業に限られるものではなく、海運業や手工業などによって財を成した者も多くいた。このような風潮に対し、天保の改革最中の天保13年(1842年)9月の御触書には「百姓の余技として、町人の商売を始めてはならない」という文があり、併せて農村出身の奉公人の給金に制限を設けているが、これは農業の衰退に繋がる事を危惧した江戸幕府の対応策であったと考えられる。つまり、江戸時代における百姓とは農業専従者である「農人」ではなく商人、職人を含む農村居住者全般を意味する言葉であったのである。このように、実際の江戸時代の身分制度は士農工商の職業概念から大きく乖離していた。 およそ、江戸時代の身分制度は、全体としては、武士・平人・賤民の三つの身分層で成り立っていたとされる。また、熊本藩のように、時代や地方によっては「士」・「農」・「商(工・商)」の間にある程度上下身分的関係が存在し、藩が藩経済の根本として農業を重視し、百姓を本業に専念させるために「農」と「商」の政策的区別を意図して行って区別し、「農」を「商」より上位に位置づける配慮がなされ、その結果、「根本、商売ハ農より賤物」と言わしめるに至るなど、明確に身分区分が存在した藩もあった。
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