江戸時代の金融
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 07:21 UTC 版)
両替商 金貨は江戸以北の太平洋側の地域、銀貨は大坂、京都、東北以南の日本海側の地域で主に流通した。江戸では金建てで価値を表す金遣い(きんづかい)であったのに対して、上方では銀建てによる銀遣い(ぎんづかい)であった。江戸と上方を中心とする交易上の理由と、金貨・銭貨(計数貨幣)と銀貨(秤量貨幣)の特徴の違いから、日常的に両替が必要であった。このため両替商の存在が重要となり、金座や銀座の周辺にいた両替商は、本両替商と銭両替商へと分業が進んだ。本両替商には為替や貸付、預金などの業務を行う者もおり、なかでも江戸の本両替仲間と大坂の十人両替仲間がよく知られた。 為替、手形 御定相場として慶長の幣制によって金1両=銀50匁=永1貫文=鐚4貫文(4,000文)が定められ、元禄期に金1両=銀60匁=銭4貫文に改定されたが、実際には相場が変動していた。大坂の北浜で銀相場、江戸で金相場が形成されるようになり、金1両=銀60匁から70匁前後で変動した。幕府は消費を安定させるために固定相場を望み、江戸両替屋は変動相場を望んだため享保年間に交渉を行い、変動相場が維持された。 幕府貨幣の三貨のほかに、米も貨幣として流通し続け、大坂の堂島米市場では、米の預かり証である米手形も発行された。米手形は蔵屋敷が発行したもので、享保時代に米切手と呼ばれるようになった。米切手は1枚あたり10石の米と交換でき、その種類には、(1)蔵屋敷が発行する出切手、(2)蔵屋敷の裏付けがない空米切手、(3)借財の担保になる調達切手、(4)借財の担保であり流通性がない坊主切手があった。こうして堂島米市場では現物取引に加えて18世紀には先物取引も行われるようになり、これが世界初の先物取引とも言われている。多額の金銭の輸送のリスクを避けるために、大坂では手形決済が商品取引の99パーセントにも及び、京都では50パーセント、江戸はそれ以下だったとされる。 幕府は送金を民間の商人に委託し、御為替御用と呼ばれた。御為替御用は12人の江戸両替商が担当し、大坂御金蔵から江戸御金蔵に為替手形で送金をした。大名も同じ仕組みを利用していた。 幕府や領主の資金貸借 幕府は、享保時代から民間の資金を借り入れるようになり、御用金と呼ばれた。御用金は米価安定のための資金調達などに用いられていたが、幕府の財政悪化や民間経済の活発化によって増加し、弘化時代には幕府の財政悪化の対策に用いられるようになった。大名や旗本の資金調達は、大坂米市場での米切手の発行か、特定の商人からの融資であった。商人は弁済を要求できなかったため遅延や債務不履行が多発し、特定の商人と大名が結びついて融資を行うようになる。幕府は、融資を受けられない大名に対して拝借金や御貸付と呼ばれる金融支援を行なった。拝借金は無利子であったが幕府の財政難で停止され、民間の資金によって利子付の御貸付に替わった。幕府は財政難に陥ると利子つきの公金貸付を増やし、1761年以降は町人からたびたび御用金を調達して貸付にまわした。1800年時点で公金貸付は約150万両、1817年には約300万両となり、その7割ほどが利子つきだった。文政期以降は改鋳(後述)によるインフレーションも起き、大名や幕臣は困窮が進み、公金貸付も元利回収が滞って行き詰まった。 在方の資金貸借 江戸の町奉行所は1661年に、問屋を除いて売掛債権の訴状を裁かないとする相対済令を出し、のちに借金銀や買掛の相対済しを命じた。これには窮乏する武家を救済する意図も含まれていた。相対済令は大坂や京都にも心得として伝えられたが、実施はされなかった。幕府は米価の低下を抑えるため、買米令によって商人に米を強制的に買わせることを決める。そして商人の買米の資金調達のために、相対済令を取りやめて貸返済訴訟を再開した。農村においては、無尽(頼母子講)が行われており、零落の危機や田地の売買から救う役割を果たした。
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