日本の貨幣史
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日本の貨幣史(かへいし)では日本の貨幣の歴史、および歴史上の各時代における貨幣の機能や貨幣制度の歴史を指す。日本に流入した海外の貨幣や、海外で流通した日本の貨幣についても取り上げる。また、歴史的に蝦夷地や琉球と呼ばれてきた地域の貨幣についても記述する。世界各地の貨幣の歴史については、貨幣史を参照。
注釈
- ^ 変動相場制において為替レートに影響を与えるのは、名目金利、予想物価上昇率、物価上昇率となる。この3つに影響するのが金融政策であり、金融政策は日本銀行が公開市場調査などによって物価を安定させる政策を指す。
- ^ 金本位制のもとでは(1)為替レートの安定化と国際資本移動の自由化がおおむね選択され、固定相場制のもとでは(3)為替レートの安定化と独立した金融政策がおおむね選択される。
- ^ 銭は銭貨とも呼ばれる。
- ^ たとえば2014年度(平成26年度)には日本銀行券が30億枚発行され、銀行券製造費は51,483,108,000円となっている[29][30]。
- ^ 東大寺で大仏に鍍金するための金が不足した時に陸奥国で金が発見され、聖武天皇が東大寺に行幸して喜んだという記録が『続日本紀』にある。
- ^ 『日本書紀』には、683年(天武天皇12年)に銅銭を推奨して、銀銭を禁じる記述がある。
- ^ 貯蓄した銅貨は叙位の際に献納銭として政府に回収されるため、実際には蓄蔵と流通の双方を促進するのが目的だった。
- ^ ただし、律令政府は貨幣の流通を都と畿内に限定して、国家の支払いで地方に流れた貨幣は政府で回収する方針であり、蓄銭叙位令もその一環であったとする説がある。
- ^ 硬貨の認識は次第にすすみ、『日本霊異記』や『今昔物語集』にも銅貨が登場する説話が記録されている[53]。
- ^ 『うつほ物語』には学生が寄宿舎で短冊状の食券を使う描写があり、『枕草子』には和歌が書かれた紙片を物との交換に使えると勘違いする男の話が書かれている。
- ^ 9世紀の『日本霊異記』には、米や酒の私出挙について記述があり、大安寺の修多羅分の銭が金融資本とされた事例が見られる。
- ^ 『百練抄』1179年(治承3年)6月の記述による。また九条兼実『玉葉』によれば、同年7月に輸入銭を估価法に導入するかについて朝廷で協議した記録がある。
- ^ 中国からの銭の金属混合比率は、銅:錫:鉛=7:1:2程度だった[67]。
- ^ 広橋経光の『民経記』には、西園寺公経によって銭10万貫文を運んだ貿易船の逸話が書かれている。
- ^ 中国では宋の交子に始まり、元の時代に交鈔、明の時代に大明通行宝鈔と呼ばれた紙幣が発行された。
- ^ 韓国の新安郡で発見された新安沈船は、中国の慶元から日本へ向かっていた船であり、陶磁器などの貿易品の他に800万枚(28トン)の銅貨を積んでいた。木簡には京都の東福寺や博多の筥崎宮の名があり、火災にあった寺院の復興資金を運ぶ寺社造営料唐船と推測されている。
- ^ 中国からの輸入銭の不足は東アジア各国に影響し、14世紀から15世紀には朝鮮王朝やベトナムの王朝も硬貨と紙幣を発行した。琉球は大世通宝、世高通宝、金円世宝という3種類の銭を発行しており、発行時期は15世紀後半の可能性がある[71]。
- ^ たとえば1407年(応永14年)の遣明船からの利益は20万貫文にのぼり、これと比べて土倉酒屋役は6000貫文だった。
- ^ 模造銭や無文銭は、鎌倉、博多、加治木、堺などで作られた。
- ^ 日本では錫が不足し、中世末の日本製の銭は銅含有率が90パーセントを超えるものが発行されるようになる。
- ^ 代官請負は公家や寺社などの領主の代わりに年貢を徴収して京都への運搬をする業務であり、集めた年貢の資産運用という面があった。
- ^ 『庭訓往来』には、宿・港などの交通の要所や金融業と割符の関係について記録がある。
- ^ 『宮後三頭大夫文書』の記録による。
- ^ 『北野社家日記』明応元年10月14日条、『看聞日記』永享10年4月4日条などの記録による。
- ^ 『満済准后日記』永享6年6月24日条、『北野社家日記』永正7年6月9日条などの記録による。
- ^ 『親元日記』寛正6年5月25日条などの記録による。
- ^ 1485年の大内氏に始まり、相良氏、室町幕府、九条政基、興福寺、東福寺、武田氏、後北条氏、結城政勝、尼子氏、細川氏・三好氏、浅井長政、織田信長、柴田勝家、筒井順慶、羽柴秀吉などによって出された。
- ^ ただし、同様の撰銭令がたびたび布告されていることから、実際は機能していなかったという説もある。
- ^ さかひ銭は堺で作られた私鋳銭とされる。
- ^ 灰吹法とは、金銀の鉱石を鉛に溶かして反射炉に入れ、空気を吹きつけて酸化させた鉛を灰に吸着させて金銀を取りだす方法である。
- ^ 『朝鮮王朝実録』には、1528年(大永8年)の漢城で日本の鉛鉄から密かに銀を精錬した事件の記録もある。
- ^ たとえば1544年(天文13年)には安心と名乗る僧が日本国王使として朝鮮に8万両の銀を持ち込んでいるが、これも偽使とされる。
- ^ 明の鄭舜功が書いた『日本一鑑』によれば、1534年(天文3年)には福建の商人が日本の僧からの情報で貿易を盛んにしたとされている。
- ^ 蓮如「願泉寺文書」文明12年11月21日の記録など。
- ^ 『妙法寺記』や『多聞院日記』などの記録による。
- ^ 天正通宝と文禄通宝は、永楽通宝をもとに母型を作られた。
- ^ 江戸時代を舞台にした『銭形平次』で主人公の平次が用いるのは寛永通宝である。
- ^ 大坂の米市場については、井原西鶴が『日本永代蔵』で書いている。
- ^ 農村金融については『民間省要』などに詳しい。
- ^ 年間賃金収入を、生存水準の総栄養摂取量1日1940カロリーとタンパク質摂取量80グラムとなるように調整した品目によって計算された実質賃金。
- ^ 農家の季節出稼、鯨捕り、塩づくり、酒造り、醤油造り、海苔稼など。
- ^ 農家の年雇、商家の丁稚、職人の徒弟など。
- ^ こうした区別は日本語以外にもあり、英語ではwageとsalaryの違いがある。
- ^ 井原西鶴の作品では、投銀が唐や異国船に投機する行為として書かれている。
- ^ 明治時代を舞台とした『ゴールデンカムイ』には、アイヌが金を秘蔵していたという設定がある。アイヌが金を用いて和人と交易をした記録は、ジョン・セーリスが和人から聞き取った証言や、天野信景の『塩尻』などに書かれている。金採掘については、マルチン・ゲルリッツエン・フリースや松浦武四郎の体験談がある[166]。
- ^ シャクシャインの戦いでは直接取引を望みアイヌ側に味方する金掘りや道外商人もいたため、松前藩は和人の金掘りの渡航を禁止した。
- ^ 最後の改鋳は正徳元年であるが宝永期の一連の改鋳の性格を持つ。
- ^ 丁銀についても小判と伴に若干品位の変動があったとする説もある[172]
- ^ 新紙幣はドイツで作られたため、ゲルマン紙幣とも呼ばれた。
- ^ 「兌換銀券人物描出の件」という閣議決定がなされ、肖像にふさわしい人物として、日本武尊、武内宿禰、藤原鎌足、聖徳太子、和気清麻呂、坂上田村麻呂、菅原道眞があげられた。
- ^ 関東大震災の損害は日本銀行の集計で45億円となり、1922年(大正11年)の一般会計予算の3年分、国民所得の30パーセントに及んだ。取り付け騒ぎの発端は、衆議院予算委員会の片岡直温大蔵大臣の発言だった。
- ^ 金解禁をめぐる論争では、賛成派は政界、官界、財界、一般メディア、経済メディアの多数派だった。賛成派はさらに旧平価解禁派と新平価解禁派に分かれた。旧平価解禁派は、経済学者では福田徳三、河上肇。メディアでは『大阪毎日新聞』、『東京日日新聞』、『大阪朝日新聞』、『東京朝日新聞』だった。新平価解禁派は、経済学者の石橋湛山、評論家の高橋亀吉、メディアでは『東洋経済新報』。などだった。
- ^ 高橋の前任で金解禁を行った井上準之助は血盟団事件で暗殺された。
- ^ 満洲中央銀行開設にあたり、満州の通貨統合が行われた。それまで関東州と満州鉄道附属地域では朝鮮銀行券が流通していたが、新通貨は銀本位の紙幣となった[201]。
- ^ 華北の朝鮮銀行券を上海に運んで日本側の銀行で法幣に交換し、それを華北に運んで聯銀券を通じて朝鮮銀行券に換えていた。蔣介石政権の外貨割当制がきっかけでこの方法が広まった。
- ^ 大日本綿糸紡績連合会「紡績職工事情調査概要報告書」の記録による。
- ^ 1905年(明治38年)の雑誌「実業之日本」に掲載された「会社銀行賞与金精度の改良」の記録による。
- ^ 日本で最初に科学的管理法を導入したのは鐘紡と言われている。
- ^ 中央賃金専門委員会「賃金形態ニ関スル指導方針」1943年。
- ^ ブレトン・ウッズ体制はIMF平価の調整が可能であり、調整可能な固定相場制(アジャスタブル・ペッグ)とも呼ばれる。
- ^ 不採用の理由は、伐折羅大将は戦勝国に対する怒り、弥勒菩薩像は敗戦の悲哀を表現するように見られるというものであった。
- ^ 食料となる農産物を闇市などで売った農村では、新10円札の厚さが一尺(約30センチ)に達すると一尺祝いという宴会を行った。
- ^ 有名な人物として、判事の山口良忠、文学者の亀尾英四郎らが知られている。
- ^ 全国28都市、55人以上、2人以上の家庭を調査対象として始まった[222]。
- ^ ドッジ・ラインの施行当時、池田勇人大蔵大臣は1950年(昭和20年)3月1日の記者会見で「ディス・インフレという大きな政策の前に、5人や10人の中小企業の業者が倒産し、自殺しても、それは止むを得ない」と発言をした。この発言が原因で池田に対する不信任決議につながった[223]。
- ^ 特需は、米軍や国連軍関連機関がドル払いで物資を調達しており、厳密には国際収支の輸出入ではなく政府取引の軍関係の購入になる。
- ^ 変動相場制について各国の対応は分かれた。日本は円切り上げを行わない方向で固定相場制を求めていた。他方ドイツではインフレの抑制を重視するためにマルクの切り上げを行っており、変動相場制への移行を求める意見が多かった[230]。
- ^ 田中角栄総理大臣は、日本列島改造論がインフレーションの一因であることを否定した。1973年6月の講演では「現状をインフレとは思っていない。列島改造論が物価を押し上げているとは思わない」と発言した[233]。
- ^ 当時の三重野康日銀総裁は、金融引き締めによって「平成の鬼平」と称賛された。後年になり、金融引き締めはバブル崩壊後の日本経済を悪化させたと分析されている。
- ^ 経済が流動性の罠に当てはまる状態として、(1)短期の名目金利が超低金利。(2)総需要が常に生産能力を下回っている点がある。流動性の罠が生じる条件として、生産力の低下が予想される点があり、日本では人口構成による労働力の減少が根拠となる。労働力減少の見通しは、投資の期待利回りの低下などの影響をもたらす。
- ^ 日本銀行総裁の速水優、福井俊彦、白川方明らはインフレターゲットについて否定した。インフレターゲット#日本も参照。
- ^ 戦時中の賃金統制の方式は、戦後は春闘などの賃金交渉に移り、賃金政策の必要性が薄れた。
- ^ 終戦直後の賃金政策は厚生省の官僚が作り、のちに大蔵省主計局給与局のメンバーも参加した。
- ^ 最低賃金法は労働基準法と同じく家内労働を除外している。
- ^ 日本の個人投資家を表すミセス・ワタナベという語も生まれた。
- ^ 交通系カードの相互運用は、利用範囲の拡大で利用価値が高まりネットワーク外部性が作用する。
- ^ ビッチコインの考案者は、サトシ・ナカモトというペンネームで知られているが、国籍や性別は不明である。サトシ・ナカモトがビットコインのコーディングを始めたのは、本人の投稿によれば2007年5月となっている[261]。
- ^ 漢詩集の『経国集』には、711年(和銅4年)より前に作られた役人用の試験答案も収録されており、そこにはすでに私鋳対策の問題があった。
- ^ 『貨政考要』によれば、最大の事件は福岡藩で家老格も加わった偽造(太政官札贋造事件)があり、1870年に発覚した。
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