日本の貿易史
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日本の貿易史(にほんのぼうえきし)では、日本の対外貿易に関する歴史を説明する。歴史的に蝦夷地や琉球等と呼ばれてきた地域の貿易についても記述する。
注釈
- ^ 加耶は、金官加耶、大加耶、小加耶、阿羅加耶などの小国が群立する地域だった。
- ^ 『宋書』倭国伝には、倭国の王として讃、珍、済、興、武の5人が記録されている。武は雄略天皇とされるが、他の王がいずれの天皇にあたるのかは論証が困難とされている。
- ^ 東北で砂金の採掘が始まる以前は、日本は朝鮮半島から金を輸入していた。東大寺の大仏に用いる金が不足した時に陸奥国で金が発見され、聖武天皇が東大寺に行幸して喜んだという記録が『続日本紀』にある[5]
- ^ 唐物は、『竹取物語』や『うつほ物語』、『源氏物語』などの王朝文学にも描かれた。
- ^ 硫黄は主に薩摩の島津氏と豊後の大友氏が採掘したものを運び、1艘の遣明船に約54トンを積んだ記録もある。島津氏は硫黄島、大友氏は九重山や伽藍岳から採掘した[8]。
- ^ 日本刀は室町時代を通して20万本と大量に輸出されたが、大量生産が品質の低下を招いて価格が下落した[10]。
- ^ 精錬技術の普及によって貴金属の輸出は江戸時代まで続いた[11]。
- ^ 日本で発見された最古の鉄器は紀元前5世紀に燕で作られた斧である[34]。
- ^ 弥生時代では紀元前3世紀から紀元前1世紀にかけてが最も温暖で、この時期に中国の前漢との交流が始まった[36]。
- ^ 回賜では、質量ともに朝貢をはるかに上回るものを与え、朝貢をした国は受け取った品物を分配して支配力を強化した。朝貢を受ける側は、より多くの回賜を贈らなければならず、財政を圧迫した。
- ^ 倭国が使節を開始したのは、『梁書』の413年に高句麗と共同で東晋に入貢した記録か、『宋書』倭国伝にある421年の讃による宋への入貢のいずれかで諸説がある[2]。
- ^ 讃は倭国王および安東将軍または安東大将軍の官爵を得て、宋の外臣として倭国に将軍府を設置した[51]。
- ^ 加耶は鉄を輸出する一方で耕作地が少なく、穀物を輸入していたとされる。
- ^ 国内交易については、各地の首長が独自に交易を支配していた状態から管理を強める。市を管理する市司や渡し場の管理者である渡子が手数料を徴収できないようにした上で、それらの役職に農地を与えて役人へと変えた[67]。
- ^ 『日本書紀』には斉明5年の高句麗使者と羆の毛皮、大江匡房の著した『江家次第』には渤海使と貂の毛皮の逸話などが記録されている。
- ^ 長安には、中央アジアのソグド人、サーサーン朝のペルシア人、大食と呼ばれたイスラーム教徒、インドからの使節や商人が集まっていた。
- ^ 遣唐使船は中国のジャンク船型の外洋船であり、障子絵の『聖徳太子絵伝』や絵巻物の『吉備大臣入唐絵巻』などに遣唐使船が描かれている。
- ^ 唐以外の地域からも日本を訪れる者がおり、僧侶ではインド出身の菩提僊那や、チャンパ王国出身の仏哲がいた。『続日本紀』によれば、ペルシアを指す波斯国(はしこく)の李密翳が唐人の皇甫東朝とともに平城京を訪問し、聖武天皇から位を受けている[74]。
- ^ 銀は674年に対馬で銀が発見されて国産化された。初の金の国外輸送は、776年(宝亀7年)の遣唐使藤原清河に対する砂金の支給である[75]。
- ^ 掖久については、現在の屋久島や奄美、沖縄を指すとされる。『隋書』には流求という地名もあるが、沖縄を指すかについては諸説がある。
- ^ 最後の遣唐使でもある僧の円仁が書いた旅行記『入唐求法巡礼行記』は、当時の唐や新羅商人の事情を知る貴重な史料である。
- ^ 最後の遣唐使を送ったのちに来航した商船としては、張保皐の関係者をはじめとして、博多に来た大唐国商人の欽良暉の交関船(貿易船)[88]や、肥前国に来た大唐呉越船などが記録にある。これらの商船は300トン級と推定されている。
- ^ 清盛は福原で後白河法皇と宋人を謁見させるが、これは異国人と天皇の直接対面を禁じた宇多天皇の訓戒に反する行為だった。また宋からの供物には「賜日本国王」と書かれており、公卿たちは「賜」という言葉を無礼としたが、清盛は宋に返事と返礼の品を送った。
- ^ ここで粛慎と呼ばれている民族は、オホーツク人を指すという解釈が定説となっている。
- ^ 鴻臚館という名称は中国の鴻臚寺に由来する。
- ^ 鎌倉時代の商船は『北野天神縁起絵巻』に描かれている。
- ^ 官貿易では価値が低い品物は積荷の15分の2が徴税され、15分の5が官貿易の対象となった。負担の大きさを理由に商船が減ったために徴税額が19分の1となり、官貿易は衰退した。
- ^ 慶元を治めていた呉潜は、1258年(正嘉2年)に倭商の商品として倭板と硫黄をあげている。
- ^ モンゴル帝国は金や銀の入手や南宋の孤立を目的として雲南・大理遠征も行った。
- ^ 遣明船は『真如堂縁起絵巻』に描かれており、遣明使の記録には『笑雲入明記』、『壬申入明記』、『初渡集』、『再渡集』などの入明記がある[94]。
- ^ 遣明船の調達に1800貫文、積荷に1500貫文、勘合を幕府から得るために300貫文ほどかかったが、利益は平均で1万貫文に達した。
- ^ 倭寇が活発となった原因としては、日本における鎌倉幕府の滅亡と南北朝時代の分裂による治安悪化、朝鮮半島における元軍による高麗の混乱、中国における明の海禁などがあげられる。
- ^ 高麗で蔑視されていた水尺や才人と呼ばれる人々も倭寇に参加した。倭寇との戦闘で名を馳せた高麗の李成桂は、のちに李氏朝鮮を建国した。
- ^ 南西諸島の海岸は珊瑚礁が多く、大型船に向かない場所が多かった。当時の那覇は独立した島で、珊瑚礁のない内海があり、良港の条件を備えていた。島には琉球人や倭人の他に、貿易のために華人や朝鮮人も生活していた。琉球本来の信仰の他に禅寺などの宗教施設も建設され、のちに禅僧は貿易にも貢献する[120]。
- ^ ポルトガルの冒険家メンデス・ピントの『東洋遍歴記』には、琉球や薩摩に滞在した話や、1542年頃にムスリムのジャンク船から銀を奪ったところ、その大半はムスリムが平戸の船から奪った物だったという話がある[138]。
- ^ 倭寇の頭目のひとりである林鳳は、スペイン領フィリピンのマニラを攻撃して撃退された。王直の配下だった李旦は平戸で貿易を行った。
- ^ 倭寇は文芸の題材にもなり、馮夢竜の小説集『三言』には福建で倭寇に捕らえられて日本で暮らした商人の物語がある。
- ^ 改宗ユダヤ人はユダヤ人追放令によってイベリア半島を出た人々で、イエズス会士にも改宗ユダヤ人が多く、16世後半にはマカオのポルトガル人の半数は改宗ユダヤ人だった。インドのゴアの異端審問を逃れて東アジアや東南アジアに来る者もいた。改宗ユダヤ人やイエズス会はしばしばカピタン・モールと対立した。
- ^ 火縄銃の伝来については、南浦文之の『鉄砲記』に書かれている。
- ^ カピタン・モールの船にはマカオの商人が委託商品を積み、カピタン・モールは手数料の1割を徴収した。官許船や定航船は当初ガレオン船1隻が用いられ、のちに小型のガレオタ船が複数で航海する体制になった。私貿易の船はジャンク船やナウ船が用いられた。
- ^ ポルトガルやスペインの貿易は、ジェノヴァのサン・ジョルジョ銀行から融資を受けており、リスク管理のために複数の人間が共同出資するコンパーニアや、高利の海上貸付であるレスポンデシアが行われていた。
- ^ 九条政基の『政基公旅引付』、伊達氏の『天正日記』、甲斐の『勝山記』、武田氏の軍書『甲陽軍鑑』、『雑兵物語』、薩摩藩の上井覚兼の日記、太田牛一の『信長公記』で描写された信長軍の上洛など各地に記録がある。宣教師のルイス・フロイスも『日本史』で戦時の人身売買について記した[152]。
- ^ 1555年にマカオにいた宣教師のカルネイロの手紙には、多くの日本人がマカオに運ばれているという記録がある。
- ^ フロイスの『日本史』には、豊薩合戦で捕虜となった女性や子供が1人あたり2〜3トスタンで売られたとある。ポルトガルへと運ばれた日本人奴隷は400トスタン以上で取引された[153]。
- ^ 各地に残る訴訟記録から、売買された日本人側は奴隷ではなく年季奉公として解釈した者が多数にのぼる可能性がある[155]。
- ^ 文禄・慶長の役における奴隷貿易の様子は、従軍した僧の慶念による『朝鮮日々記』や、興福寺の僧による『多聞院日記』にも書かれている。
- ^ ポルトガルのマラッカ占領時代の商館員だったトメ・ピレスの『東方諸国記』では、琉球人は「刀剣を帯びた人々」を意味するゴーレスという呼び名で記録されている。
- ^ 琉球は那覇と首里の防衛を固めて、1550年代に琉球各地の島の警護も行なった。1556年(嘉靖35年)には明軍に破れた倭寇船が琉球に漂流して戦闘が起き、捕らわれていた被虜人を中国へ送還している。
- ^ 仙台藩は日本初のヨーロピアンスタイルの遠洋航海用ガレオン船となるサン・ファン・バウティスタ号を建造し、フランシスコ会のルイス・ソテロ正使、仙台藩士の支倉常長副使による慶長遣欧使節がヨーロッパ経由でアメリカに航海した。
- ^ 投銀の賃借期間は約半年で、利率はリスクを考慮して30%から40%と高利であり、日本人の海外渡航が禁止されたのちの中国船では80%となった。
- ^ 江戸時代の文芸にも投銀は登場しており、井原西鶴の作品では長崎を舞台に唐や異国船に投機する行為として書かれている。
- ^ 各藩でも薬材の確保や新たな食物栽培の研究を行う事は飢饉や疫病による社会不安を抑えたり、産業の振興を図る上で有効と考えられ、薬園を設置するとともに、植物に詳しい本草学者や蘭学者を招いて指導に当たらせた[176]。ただし、こうして流通し始めた国産の薬材の中には質の低いものも混じっており、江戸幕府は和薬種改会所の設置や薬種問屋の株仲間の結成を行わせて品質管理の強化を図っている[177]。
- ^ 幕府がオランダ風説書から得た情報には、アヘン戦争や、アメリカの日本来航計画の情報などもあった。
- ^ 唐人屋敷は、のちの長崎新地中華街へとつながる。
- ^ ベルリンのシャルロッテンブルク宮殿、ポンマースフェルデンのヴァイセンシュタイン城、ミュンヘン・レジデンツ、ハンプトンコート宮殿などに当時の伊万里焼が残されている。
- ^ 日本の醤油はディドロの『百科全書』にも掲載された。
- ^ シャクシャインの戦いではアイヌ側につく金掘りもいたため、松前藩は和人の金掘りの渡航を禁止した。
- ^ アイヌが酷使される様子は平秩東作の『東遊記』などに記されている。
- ^ 記録としては新井白石の『蝦夷志』や津村淙庵の『譚海』、ハインリヒ・フォン・シーボルトの『蝦夷見聞記』がある。
- ^ 取り引きにおいて日本や清の貨幣は用いられず、清の宮廷で重宝されていた樺太産のクロテンが価値尺度の貨幣としても通用した。山丹側の商品はクロテンの枚数で計算されたのちに、毛皮や鉄製品と交換された。
- ^ ロシアへの対応をめぐって林述斎と老中土井利厚が激論となった。
- ^ 日本と貿易を行っていたオランダは特使を派遣した。国王ウィレム2世の特使は親書によって欧米諸国との貿易を勧告したが、幕府は通信国と貿商国の違いを理由として拒絶した。他にも琉球にはフランスのフォルニエ・デュプラン指揮のアルクメーヌ号、浦賀にアメリカのジェームズ・ビドル指揮の軍艦2隻が通商を求めて来航した[200]。
- ^ イギリスのP&O、フランスのメサジェリ・マリティーム、アメリカのパシフィック・メイル社など各社が進出した。
- ^ 日本の金銀交換比率は1:5だったが、諸外国ではおおむね1:15の交換比率が成立していた。このため外国商人は日本へ銀を持ち込んで、金と交換し、上海などで再度銀と交換するだけで巨利を得ることができた。
- ^ 江戸時代の後期になると豪商が増え、各藩では商業の中心で幕府の資金源である大坂を介在せずに取り引きをしようという動きや産業振興が進んだ。徳島藩の藍、高松藩の砂糖、備前藩の陶磁器、秋田藩の絹織物など多くの藩が特産物の開発を試みた。こうした試みが、開港後に有利に働いた藩もあった。
- ^ 大阪紡績の成功には、第一銀行の渋沢栄一の投資が影響していた。
- ^ 近代的な大型船の建造は、長崎製鉄所のオランダ技術者や横須賀製鉄所のフランス技術者の指導に始まり、のちに当時の造船先進国イギリスからも技術を学んで向上した[215]。
- ^ 総合商社が出現した原因は、(1)先進国との競争で大規模な商社が必要とされた点、(2)外国為替取引などの補助業務が未発達であり自営が必要だった点、(3)大規模な商品取引が必要だが大量に輸出入できる商品がなかった点、などの説がある。
- ^ 清はアヘン戦争によって欧米と不平等条約を結んだ。上海や香港が成長し、最大の貿易港となった上海の貿易商は、欧米諸国と取り引きする西洋荘、日本と取り引きをする東洋荘、東南アジアと取り引きをする南洋荘に分かれた。財政難となった清は朝貢国に対して朝貢の増量を求め、回賜には紙幣を用いたために朝貢国の利益が減り、私貿易の増加もあって朝貢は衰退した[220]。
- ^ 1885年(明治18年)から1893年(明治26年)まで朝鮮からの輸出総額の90%以上は日本向けで、対日輸出は米や大豆などの穀物が中心となる。
- ^ 金本位制では、各国の通貨は金との交換比率が決められており、通貨量は各国が保有する金の保有量に制約される。貿易黒字国ではインフレ圧力が高まって輸入の増加と輸出の減少が起き、貿易赤字国ではデフレ圧力がかかって輸出の増加と輸入の減少が起きて、輸出入による自動調整が作用すると期待されていた。
- ^ 経済成長率は大戦前の2.08%から7.9%に上昇し、経常収支黒字はGNP比で6%から7%に達した。
- ^ 1914年から1918年にかけての輸出額は、7億3000万円から20億3000万円に増加した。貿易外収支は、船舶の不足による運賃や傭船料、海上保険料などの上昇で約14億円の受取超過となり、合計で28億円の正貨が流入した。
- ^ 加えて関東大震災の被害や、外国製品の輸入再開も重なって不況が深刻化し、大戦景気の成金の多くは没落した。
- ^ 当時の海運では蒸気船の燃料となる石炭の補給が重要であり、九州で炭鉱開発と石炭輸出が急増した事情も、からゆきさんの渡航に関係している。
- ^ 東南アジアという地理概念の一般化は欧米よりも早く、1919年(大正8年)の小学校地理の国定教科書にも「東南アジヤ」の説明がある。ただし、その記述はインドネシアの米、マレー半島のゴム、ジャワの砂糖、ボルネオやスマトラの石油、フィリピンのマニラ麻など、全て資源と貿易の情報で占められていた。
- ^ パキアオはスペイン統治時代のサトウキビ農園のアシエンダから発達した制度で、日本撤退後のバナナ農場にも同様の手法が用いられた[235]。
- ^ 1931年(昭和6年)には農村を中心として「娘地獄」と呼ばれるほど身売りが多発し、労働争議は戦前期で最高となり、東京帝国大学法学部生の就職率は26%、自殺率は死因統計開始以来の最高となった[247]。
- ^ しかし、五・一五事件により犬養毅首相は暗殺され、二・二六事件では高橋が暗殺された。
- ^ 獅子文六の小説『大番』は、相場師を主人公として満州事変を歓迎する当時の世相を反映しており、小津安二郎監督の映画『大学は出たけれど』にも昭和初期の不況が描かれている。
- ^ この法律によって石油の輸入規制や特定企業への割り当て、価格統制、政府による強制買い上げの権利、外国企業の6ヶ月備蓄の義務が決定した。
- ^ 特需は、米軍や国連軍関連機関が物資の調達をドル払いで行うという特徴があり、厳密には国際収支の輸出入ではなく政府取引の軍関係の購入という扱いになる。
- ^ 外貨割当制によって重要な技術や機械の輸入で外貨を優先的に使い、一方で競合製品の輸入を制限して産業の保護と育成をした。
- ^ IMFの14条国は国際収支の赤字を理由に為替制限ができるが、8条国はそれができない。
- ^ ここでのベトナム周辺地域とはアメリカが対外軍事支出や援助を行なった韓国、台湾、香港、タイ、フィリピン、南ベトナムなどを指す。
- ^ ロナルド・レーガン政権は減税と政府支出の拡大を行い、貿易赤字が拡大した。財政赤字と合わせて双子の赤字とも呼ばれた。
- ^ 合意前に1ドル=240円だった為替レートは急速に円高が進み、1985年末には1ドル=約200円となり、1987年(昭和62年)には約120円となった。
- ^ 実質実効為替レートの円高が、交易条件の改善を上回った場合は、輸出産業の収益性が悪化する。
- ^ 日本の直接投資の動機としては、(1)低コスト追求、(2)市場アクセスの確保、(3)天然資源の開発、(4)技術や情報の収集、(5)税や規制の回避、などがある。日本の直接投資の歴史は、欧米に対しては(2)、東アジアにおいては(1)が多かった[281]。
- ^ 日本の製造業の海外生産比率は1985年度の3.0%から1990年度の6.4%、2000年度の14.6、2001年度の16.9%と伸びていった。海外進出企業の海外現地法人売上高の割合も伸び、1985年度の8.7%から1994年度には20%、1997年度には30%となった[285]。
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