ウルグアイ‐ラウンド【Uruguay Round】
ウルグアイ・ラウンド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/17 15:56 UTC 版)
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ウルグアイ・ラウンド(Uruguay Round、1986年 - 1994年)は、世界貿易上の障壁をなくし、貿易の自由化や多角的貿易を促進するために行われた多国間通商交渉。
ウルグアイの保養地であるプンタ・デル・エステで1986年に開始宣言されたことからこの名がついた。
1944年のブレトン・ウッズ協定によって成立したGATT・IMF体制の下に行われた通商交渉としてはケネディ・ラウンド、東京ラウンドと並び知られている。
概要
1948年に発足したGATTは、1970年代までに7回の貿易・関税交渉を行い、関税引下げなどに自由貿易の推進に一定の成果をあげてきた。しかし1980年代に入って、各国で保護主義の動きが高まり、また商品貿易以外の国際取引が増加するなど、国際貿易を巡る状況の変化によって、あらたな交渉の必要性が生じてきた。これを受けて第8回目の貿易交渉として始まったのがウルグアイ・ラウンドである[1]
この協議ではサービス貿易や知的所有権の扱い方、農産物の自由化などについて交渉が行われた。中でも農業分野交渉が難航し、将来的に全ての農産物を関税化に移行させること、最低輸入機会(ミニマム・アクセス)を決定するにとどまり、完全な自由化には至らなかった。
この協議によってGATTを改組して世界貿易機関(WTO)を設立することが決定され、また貿易に関連する投資措置に関する協定 (TRIM)、サービスの貿易に関する一般協定(GATS)、知的所有権の貿易関連の側面に関する協定(TRIPS協定)が成立した。
これにより加盟国は、パフォーマンス要求の一部を廃止することやサービス貿易の一形態であるサービス産業の現地進出に対して、規制緩和することなどの義務を負うことになった。しかし、これらは先進国が想定する投資ルールのごく一部をカバーするにとどまっており、包括的な投資ルールの策定に向けた交渉の開始が期待されている。
サービス分野や知的財産権も交渉対象となった。
ウルグアイ・ラウンドの結果に落胆した発展途上国の反発により、当初新多角的貿易交渉(新ラウンド)立ち上げを計画した1999年10月 - 11月のシアトル閣僚会議では、新ラウンドを開始出来ず頓挫した。
GATT/WTOの多角的貿易交渉
- 第1回(1948年、ジュネーヴ)
- 第2回(1949年、アヌシー)
- 第3回(1951年、トーキー)
- 第4回(1956年、ジュネーヴ)
- 第5回 ディロン・ラウンド(1960年 - 1961年)
- 第6回 ケネディ・ラウンド(1964年 - 1967年)
- 第7回 東京ラウンド(1973年 - 1979年)
- 第8回 ウルグアイ・ラウンド(1986年 - 1994年)
- 第9回 ドーハラウンド(2001年 - )
日本における対応
日本におけるウルグアイ・ラウンド合意の影響を緩和するため、細川内閣は事業費6兆100億円、国費2兆6,700億円のウルグアイラウンド農業合意関連国内対策事業費を予算執行した[2]。しかし、予算の5割強は農業農村整備事業(土地改良事業などの公共事業)に用いられ、日本の農業強化にはならなかった。JC総研の今村奈良臣所長は「その殆どは色々な建物や施設に使われたが、多くは朽ち果てているか使っていない」と述べている[3]。
脚注
- ^ "ウルグアイ・ラウンド". 日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンクより2022年2月3日閲覧。
- ^ 『ウルグァイ ・ラウンド(UR)関連対策の検証』(レポート)農林水産省、2009年3月 。
- ^ 今村奈良臣「『TPP反対の大義』を読み、感じたこと、考えたこと、そして提案したいこと」『旧JC総研所長・理事長のコラム今村奈良臣先生の部屋』第168巻、日本協同組合連携機構(JCA)。
関連項目
- 関税および貿易に関する一般協定(GATT)
- 関税割当制
- ミニマム・アクセス
- 1993年米騒動
- ウルグアイ・ラウンド協定法 - アメリカ国内における法律
外部リンク
- ウルグアイラウンドと農業政策 ~過去の経験から学ぶ~ (PDF) - 東京財団
- コメ市場 部分開放 - NHK放送史
- 『ウルグアイ・ラウンド』 - コトバンク
ウルグアイ・ラウンド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/05 01:47 UTC 版)
「関税及び貿易に関する一般協定」の記事における「ウルグアイ・ラウンド」の解説
「ウルグアイ・ラウンド」も参照 1986年9月15日から20日にかけてウルグアイのプンタ・デル・エステで行われたGATT閣僚会議において、増加するサービスの貿易や知的所有権の国際移転に対応するため次の多角的貿易交渉開催が採択された。 そのため、それまでの7回の多角的貿易交渉では、関税引き下げのための一括交渉が主なテーマであったが、ウルグアイ・ラウンドでは、サービスや知的所有権など、それまでの多角的貿易交渉では議題とならなかった交渉項目が追加され、また非関税障壁についても交渉されるなど、市場開放のあり方についてより広く交渉が行われた。 その結果、ウルグアイラウンドでは広範にわたるテーマが交渉されることになり、交渉妥結までそれまでの多角的貿易交渉よりも遥かに長い8年もの歳月を要することとなった。また、このようにGATT締約国間同士の多角的貿易交渉が積極的に進められていく傍らで、このころ先進工業国間では二国間の貿易摩擦問題が多発していた。 これをきっかけにして、GATT規定の適用を受けない二国間の貿易取り決めが数多く締結されていくこととなり、GATTは次第に形骸化・後退していくことになる。例えばアメリカ合衆国は、1984年に大統領のファスト・トラック権限をGATTの多国間交渉から二国間自由貿易協定交渉まで広げる通商関税法を制定し、これに基づき、アメリカ・イスラエル間の自由貿易協定が締結された。これはアメリカが多角的貿易交渉から離れていく象徴的な出来事であったと言える。 こうした二国間貿易取り決めが広まっていったことに加えて、1980年代には第二次オイルショックの影響から、世界景気の後退により先進諸国が農業補助金や輸出自主規制等といった形で保護主義的政策を強めていったことや、GATTが規律対象としていたモノ(財)貿易には該当しないサービスや直接投資の国際経済活動の活発化といった状況にさらされ、それまで国際貿易システムを支えてきたGATTシステムの維持が次第に困難なものとなっていったのである。 こうした流れは、暫定的なGATT体制を解消して新たな国際組織を設立することにつながっていく。またこれは、他国の貿易政策を「不正的貿易慣行」と一方的に認定し、他国に貿易制裁を科すアメリカ合衆国の1974年米国通商法(英語版)第301条の濫用を防ぎたいとする各国の思惑とも一致するものであった。 全ての交渉テーマについて、ようやく合意がまとまったのは1993年12月であり、その後1994年4月15日にモロッコのマラケシュにてウルグアイ・ラウンド最終合意文書の調印式が行われた。GATTは一部改正され1994年のGATTとしてWTO協定の附属書1Aに組み込まれた。 WTO協定には祖父条項もなく、結局正式には発効することがなかった1947年のGATTと違い正規の条約で、各国の法的関係もより明確なものとなった。そしてウルグアイ・ラウンドの終結とともに、もともと国際貿易機関が設立されるまでの暫定的な組織であったGATTを引き継ぐ国際組織として、世界貿易機関が設立されたのである。
※この「ウルグアイ・ラウンド」の解説は、「関税及び貿易に関する一般協定」の解説の一部です。
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