高岳親王
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高岳親王(たかおか しんのう、名前は「高丘」とも表記)は、平城天皇の第三皇子。嵯峨天皇の皇太子に立てられたが、薬子の変により廃された。のち復権され四品となるが、出家して真如入道親王(しんにょ にゅうどうしんのう)となる。空海の十大弟子のひとりで、仏法を求めて老齢で入唐し、さらに天竺を目指して旅立ったのち消息を絶った。異母兄に阿保親王、甥に在原業平がいる。
注釈
- ^ ただし、「蹲居太子」の意味については、高岳親王の立太子の理由も含めて様々な説が出されている[8]。①引っ込み思案であるという意味(新村出[9])。②寛容もしくは謙抑であるという意味(西岡虎之助[10])。③礼法に適った人物であるという意味(杉本直治郎[11]・中川久仁子[12])。④考えながら漂泊流浪する人であるという意味(川口久雄[13])⑤権威が認められていない皇太子の意味(河内祥輔[14]・保立道久[15])。⑥高岳親王と藤原薬子の関係を示唆する説(佐伯有清[16])。⑦父・桓武天皇の遺志に反した平城天皇への批判とする説(西本昌弘[8])⑧何らかの不祥を意味していたとする説(『大日本史』『弘法大師弟子譜』など)。
- ^ 大同5年9月10日に出された嵯峨天皇の詔では、藤原仲成・薬子姉妹が平城上皇を唆した事件と認定されている。
出典
- ^ 杉本 1965, pp. 29–30.
- ^ 杉本 1965, pp. 31–38.
- ^ 杉本 1965, p. 53.
- ^ 杉本 1965, p. 54.
- ^ 杉本 1965, pp. 41–54.
- ^ 河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』(吉川弘文館、2014年), pp. 162-163・167/初版:1986年, pp. 166・171
- ^ 春名宏昭『平城天皇』(吉川弘文館、2009年), pp. 90-93・102-104
- ^ a b 西本昌弘「桓武改葬と神野親王廃太子計画」『平安前期の政変と皇位継承』(吉川弘文館、2022年), pp. 153-155:初出:『続日本紀研究』359号(2005年)
- ^ 新村出「真如親王の記念と新嘉坡」『新村出全集』第9巻、筑摩書房、1972年、pp. 418(初出:1923年)
- ^ 西岡虎之助「高丘親王の性格」『西岡虎之助著作集』四、三一書房、1978年
- ^ 杉本直治郎『真如親王伝研究-高丘親王伝考-』(吉川弘文館、1965年), pp. 65
- ^ 中川久仁子「高丘親王-〈蹲居太子〉の号をめぐって-」『平安京遷都期政治史のなかの天皇と貴族』(雄山閣、2014年)
- ^ 川口久雄『平安朝日本漢文学史の研究』(明治書院、1982年), pp. 275
- ^ 河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』(吉川弘文館、2014年), pp. 174/初版:1986年, pp. 170
- ^ 保立道久『平安王朝』(岩波書店、1996年), pp. 24
- ^ 佐伯有清『高丘親王入唐記-廃太子と虎害伝説の真相-』(吉川弘文館、2002年), pp. 25-27
- ^ 春名宏昭『平城天皇』(吉川弘文館、2009年), pp. 217
- ^ 『日本三代実録』元慶5年10月13日条
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