久保田藩
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久保田藩(くぼたはん)は、江戸時代の藩の一つ。秋田藩(あきたはん)とも呼ばれる[1]。久保田城を居城とし、藩主は佐竹氏が治めた。佐竹氏は室町時代以来の常陸守護の家柄であったが、関ヶ原の戦いにおける挙動を咎められて出羽国(後の羽後国)秋田へ移封された。表高は約20万石、実高は約40万石。家格は大広間詰国持大名。
- ^ a b 「秋田市史 第四巻」7頁。
- ^ a b c るもい風土資産カード 北海道開発局留萌開発建設部、2021年10月6日閲覧。
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『秋田藩』 - コトバンク
- ^ a b c 『「梅津政景日記」読本』p.35。
- ^ a b 『「梅津政景日記」読本』p.38。
- ^ 『「梅津政景日記」読本』pp.38-43。
- ^ 『「梅津政景日記」読本』p.47。
- ^ 『「梅津政景日記」読本』p.54。
- ^ 『「梅津政景日記」読本』pp.54-56。
- ^ 『「梅津政景日記」読本』p.317。
- ^ a b c 『「梅津政景日記」読本』p.318。
- ^ 『「梅津政景日記」読本』pp.318-323。
- ^ あきた(通巻69号) 1968年(昭和43年)2月1日発行 p.38
- ^ 林正崇「角館城下町の歴史」ISBN 978-4-89544-633-4、無明舎出版、1982年12月、p.171。
- ^ 鬼頭宏『文明としての江戸システム』(2002)p.182
- ^ a b 「秋田市史 第四巻」20頁。
- ^ 『梅津忠昭日記』秋田県公文書館
- ^ 社には「扇に日の丸」の佐竹家の家紋がある。稲荷神社の神使である狐像は無い。
- ^ 「くぼた旧町名物語・まちの生い立ち ④江戸屋敷跡 編 東京に今も残る“佐竹”の名と紋章」『広報あきた』No.1583、秋田市、2004年8月13日、2-3頁、2014年6月14日閲覧。
- ^ “商店街の歴史”. 佐竹商店街振興組合. 2014年6月14日閲覧。
- ^ 一般財団法人千秋文庫(千代田区)が所蔵する「梅田御屋敷絵図」や登録有形文化財「千住花又瀬崎辺之図」に「佐竹大膳(佐竹義格)屋敷」と描かれている。
秋田藩
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秋田藩では宝暦3年8月20日に降雪があり、稲穂は落ち、畑作物も取り入れ前だったことから、凶作となった。翌4年は5月から7月まで70日以上も降雨が無いため旱害となった上に虫害も起きて2年続きの凶作となった。そして翌5年には5月24日に大洪水が発生して田畑が押し流され、水損の無いところでも稲虫による被害を受けた。前年にも「水魄(すいはく)」という虫が付いたため、2年続きの虫害を被ることになった。 大凶作により藩内では米1石が8貫文となった。多くの飢民が食料を求めて領外に出て行き、「渇死に及ブ者多ふ」「御国中の飢民夥敷他国へ出たり」といわれた。当時の藩は29万6670石、実高71万2000石だったが、被害高が46万2800石、洪水による損失分や翌年の種籾分などを差し引くと残高22万8164石と算出した。領内の総人口約37万人が1人1日3合食べるとして39万9600石が必要なので、17万1000石余が不足であるとした。 秋田藩領内の餓死者数は、領内人口38万8000人のうち3万2000人ほどとされる。北秋田郡七日市村では宝暦5年冬に多くの餓死者が出て、村内百姓の3分の1ほどが潰れ、秋田藩隣接の由利郡の矢島領では宝暦6年7月までに900人余が餓死したと記録されている。ただ、七日市村の餓死者について、記録を取った長崎七左衛門は現金収入を得るため銅山(近くの阿仁銅山は飢饉になると操業を中止していた)への炭の生産をもっぱら行い農業を疎かにしたためと考察し、農業を第一にしていた者は餓死に及ばなかったと記録している。 藩は領内にある米を残らず買い上げて配給するという飢民対策を採ったが、この買い上げに使用された銀札は信用が無く、米を隠匿する者や他領に売る者が多く出た。秋田藩ではこの宝暦の飢饉の結果、秋田騒動が発生する。
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秋田藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 21:47 UTC 版)
秋田藩では、宝暦5年(1755年)、天候不順から凶作を予想して、港からの米の移出を禁止するとともに、米や雑穀などを強制的に買い集めた。 仙北地方の穀倉地帯で有米調査や強制買い上げを行ない、その米を米座を通して配給するようにしたが、翌6年(1756年)2月には、久保田で玄米3斗が40匁から45匁に高騰した。この年は豊作であったが、米価の高騰によって諸物価も上昇し、諸人が迷惑するという理由で、物価の安定策として買米仕法を続行した。しかし、前年の米の買い入れに際して銀札を乱発したことが、米価高騰の理由でもあった。 天保4年(1833年)の天保の飢饉の際にも秋田藩は同様に有米調査と米の強制買い上げを実施した。この買い上げは売却を目的としたものではなく、領民への食糧配給のためであったが、徴収に反発した農民たちによる北浦一揆が発生した。小館役屋に勤める郡方吟味役の次田五右衛門が、前北浦43ヵ村の肝煎を集めて「2月までは1人1日3合、3月から5月まで1人7合の見積りで米を保有させる」から1俵3貫300文で余剰米を藩が買い上げると説得した。しかし、米が思ったより集まらなかったため、郡方の役人を総入れ替えし、1人1日2合5勺、当分は3月までの保有米という条件で余剰米を買い上げるという藩庁の決定を言い渡した。農民たちは役人の言は信用できないと怒り、強訴におよんだ。農民側の要求に対し、考慮し調査するので、後日改めて願い出るようにと告げ、農民の代表も引き下がった。一揆の情報は藩内に広がり、各地で小さな騒動が起き、その後も反発した農民たちによる一揆が発生した。
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