秋田藩とは? わかりやすく解説

久保田藩

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/03 15:09 UTC 版)

久保田藩(くぼたはん)は、江戸時代の一つ。秋田藩(あきたはん)とも呼ばれる[1]久保田城居城とし、藩主は佐竹氏が治めた。佐竹氏は室町時代以来の常陸守護の家柄であったが、関ヶ原の戦いにおける挙動を咎められて出羽国(後の羽後国)秋田へ移封された。表高は約20万石、実高は約40万石。家格は大広間国持大名


  1. ^ a b 「秋田市史 第四巻」7頁。
  2. ^ a b c るもい風土資産カード 北海道開発局留萌開発建設部、2021年10月6日閲覧。
  3. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『秋田藩』 - コトバンク
  4. ^ a b c 『「梅津政景日記」読本』p.35。
  5. ^ a b 『「梅津政景日記」読本』p.38。
  6. ^ 『「梅津政景日記」読本』pp.38-43。
  7. ^ 『「梅津政景日記」読本』p.47。
  8. ^ 『「梅津政景日記」読本』p.54。
  9. ^ 『「梅津政景日記」読本』pp.54-56。
  10. ^ 『「梅津政景日記」読本』p.317。
  11. ^ a b c 『「梅津政景日記」読本』p.318。
  12. ^ 『「梅津政景日記」読本』pp.318-323。
  13. ^ あきた(通巻69号) 1968年(昭和43年)2月1日発行 p.38
  14. ^ 林正崇「角館城下町の歴史」ISBN 978-4-89544-633-4、無明舎出版、1982年12月、p.171。
  15. ^ 鬼頭宏『文明としての江戸システム』(2002)p.182
  16. ^ a b 「秋田市史 第四巻」20頁。
  17. ^ 『梅津忠昭日記』秋田県公文書館
  18. ^ 社には「扇に日の丸」の佐竹家の家紋がある。稲荷神社の神使である狐像は無い。
  19. ^ くぼた旧町名物語・まちの生い立ち ④江戸屋敷跡 編 東京に今も残る“佐竹”の名と紋章」『広報あきた』No.1583、秋田市、2004年8月13日、2-3頁、2014年6月14日閲覧 
  20. ^ 商店街の歴史”. 佐竹商店街振興組合. 2014年6月14日閲覧。
  21. ^ 一般財団法人千秋文庫(千代田区)が所蔵する「梅田御屋敷絵図」や登録有形文化財「千住花又瀬崎辺之図」に「佐竹大膳(佐竹義格)屋敷」と描かれている。


「久保田藩」の続きの解説一覧

秋田藩

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宝暦の飢饉」の記事における「秋田藩」の解説

秋田藩では宝暦3年8月20日降雪があり、稲穂落ち畑作物も取り入れ前だったことから、凶作となった。翌4年5月から7月まで70日以上も降雨が無いため旱害となった上に虫害起きて2年続き凶作となった。そして翌5年には5月24日大洪水発生して田畑押し流され水損の無いところでも稲虫による被害受けた前年にも「魄(すいはく)」という付いたため、2年続き虫害を被ることになった大凶作により藩内では米1石が8貫文となった多く飢民食料求めて領外出て行き、「渇死に及ブ者多ふ」「御国中の飢民夥敷他国出たり」といわれた。当時の藩は296670石、実高712000石だったが、被害高が462800石、洪水による損失分や翌年種籾分などを差し引くと残高228164石と算出した領内総人口37万人1人1日3合食べるとして399600石が必要なので、171000石余が不足であるとした。 秋田藩領内餓死者数は、領内人口388000人のうち32000人ほどとされる北秋田郡七日市村では宝暦5年冬に多く餓死者が出て村内百姓3分の1ほどが潰れ、秋田藩隣接由利郡矢島領では宝暦6年7月までに900人余が餓死した記録されている。ただ、七日市村餓死者について、記録取った長崎七左衛門現金収入を得るため銅山近く阿仁銅山飢饉になると操業中止していた)への炭の生産もっぱら行い農業疎かにしたため考察し農業第一にしていた者は餓死に及ばなかったと記録している。 藩は領内にある米を残らず買い上げ配給するという飢民対策を採ったが、この買い上げ使用され銀札信用無く、米を隠匿する者や他領に売る者が多く出た。秋田藩ではこの宝暦の飢饉結果秋田騒動発生する

※この「秋田藩」の解説は、「宝暦の飢饉」の解説の一部です。
「秋田藩」を含む「宝暦の飢饉」の記事については、「宝暦の飢饉」の概要を参照ください。


秋田藩

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買米仕法」の記事における「秋田藩」の解説

秋田藩では、宝暦5年1755年)、天候不順から凶作予想して、港からの米の移出禁止するとともに、米や雑穀などを強制的にい集めた。 仙北地方穀倉地帯有米調査強制買い上げ行ない、その米を米座通して配給するようにしたが、翌6年1756年2月には、久保田玄米3斗が40匁から45匁に高騰したこの年豊作であったが、米価高騰によって諸物価も上昇し諸人迷惑するという理由で、物価安定策として買米仕法続行した。しかし、前年の米の買い入れに際して銀札乱発したことが米価高騰理由でもあった。 天保4年1833年)の天保の飢饉の際にも秋田藩は同様に有米調査と米の強制買い上げ実施した。この買い上げ売却目的したものではなく領民への食糧配給のためであったが、徴収反発した農民たちによる北浦一揆発生した小館役屋勤める郡方吟味役次田五右衛門が、前北浦43肝煎集めて2月までは1人1日3合、3月から5月まで1人7合の見積りで米を保有させる」から1俵3貫300文で余剰米を藩が買い上げる説得した。しかし、米が思ったより集まらなかったため、郡方の役人を総入れ替えし1人1日2合5勺、当分は3月までの保有米という条件余剰米買い上げるという藩庁決定言い渡した農民たちは役人の言は信用できない怒り強訴およんだ農民側の要求対し考慮し調査するので、後日改め願い出るようにと告げ農民の代表も引き下がった一揆情報は藩内に広がり各地小さな騒動起きその後反発した農民たちによる一揆発生した

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「秋田藩」を含む「買米仕法」の記事については、「買米仕法」の概要を参照ください。

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