旧秋田藩主佐竹氏別邸とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 文化 > 国指定文化財等データベース > 旧秋田藩主佐竹氏別邸の意味・解説 

旧秋田藩主佐竹氏別邸(如斯亭)庭園

名称: 旧秋田藩主佐竹氏別邸(如斯亭庭園
ふりがな きゅうあきたはんしゅさたけしべってい(じょしてい)ていえん
種別 名勝
種別2:
都道府県 秋田県
市区町村 秋田市旭川南町
管理団体
指定年月日 2007.02.06(平成19.02.06)
指定基準 名1
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 旧秋田藩主佐竹氏別邸(如斯亭庭園は、佐竹氏居城であった久保田城北方1km所在し秋田市北東部流れ旭川左岸位置する久保田城搦手近在する田園景勝地(搦田)に営まれたこの別邸は「唐見殿」とも称された。
如斯亭は、元禄年間(1688~1704)に第3藩主佐竹義処(1637~1703)が下賜した土地近臣大島小助整備管理した別荘起源とするもので、当初は「得月店」と称された。第5代藩主義峰(1690~1749)のとき収公して藩主の「御休所」とした。倹約の旨によって一時衰亡したが、第8代藩主義敦(1748~1785)が安永4年(1775)に再興し第9代藩主義和(1775~1815)のときには庭園整備して秋田藩明徳館助教幹事であった儒者那珂通博に「園内十五景」(紅霞洞、靄然軒、夕陽坡、観耕台、清風嶺、佩玉矼、仁源泉、超雪渓、玉鑑池、弓字径、渇虎石、巨鼈島、星槎、幽琴澗、清音亭)を選ばせるとともに、その名を「如斯亭」と改め賓客をもてなす場として活用されまた、文人墨客交遊の場としても活用されるようになった廃藩置県により佐竹氏東京移住するのに伴ってそれまで藩政によく貢献した那波氏所有となり、昭和22年1947)には丸野内氏の所有となって現在に至っている。
庭園は南に主屋如斯亭)を置いて北方正面とし、遠く北方から東方にかけて新城山、太平山系を望む構成としている。北東部園内高所となる築山(観耕台)を設けて、そこから南に3つ、西に1つ築山連ね敷地中央部円く平たい長径3m測る岩塊から成る中島(巨鼈島)を配した小さく浅い流れ園池(玉鑑池)を設ける。東辺の築山の間の峡谷から発する流路は、伝い落ちの滝(仁源泉)を成して園池流れ園池西端からは再び流路収束し水辺設けられ大きな景石(渇虎石)を北にやり過ごして石橋(星槎)をくぐり、渓流(幽琴澗)を成して一段低い場所に設けられ茶室清音亭)の露地に至る。庭園地割東から西に向かうこの流路間断なき水流成し、「如斯亭」の名の由来となった論語』の「逝者如斯夫、不舎昼夜」(逝くものは斯くの如きか、昼夜をおかず)を嘆賞する風景として構成されたことを窺わせる主屋正面緩斜面設けられ園路は、途中で2つ分岐してそれぞれ巨鼈島と星槎経て流れ対岸至りまた、東辺に連なる南端築山清風嶺)に登る坂(夕陽坡)から北方延び園路西端位置する清音亭の露地に至る園路ともに、園内全体を巡る回遊路を構成する園内随所には、奇岩景石燈籠、蹲などを配し回遊することで様々な風景を楽しむことができる。
庭園江戸時代中期田園景勝地営まれたもので、周囲山並み築山構成相応する風土的特色有し、旧秋田藩佐竹氏関連して現存する唯一の事例として東北地方大名庭園及びその文化を知る上で貴重で、学術上の価値極めて高い。また、園内十五景」に見られる構成如斯亭の名とも相俟って独特で、芸術上の価値極めて高い。よって名勝指定し保護図ろうとするものである
史跡名勝記念物のほかの用語一覧
名勝:  旧熊本藩八代城主浜御茶屋  旧玄成院庭園  旧秀隣寺庭園  旧秋田藩主佐竹氏別邸  旧芝離宮庭園  旧観自在王院庭園  旧諸戸氏庭園

旧秋田藩主佐竹氏別邸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/08 22:17 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
旧秋田藩主佐竹氏別邸(如斯亭)の日本庭園

旧秋田藩主佐竹氏別邸(きゅうあきたはんしゅさたけしべってい)は、秋田県秋田市旭川南町に所在する、久保田藩(秋田藩)主佐竹氏の別邸およびその庭園。附属茶屋を含む。通称「如斯亭(じょしてい)」の名は本来1棟の建物を指す名称であったが、今では建物をめぐる庭園を指す名称として用いられている。かつては「唐見殿(からみでん)」とも称された。

概要

2017年に復元された如斯亭の主屋

佐竹氏の居城であった久保田城(現在の千秋公園)の北、約1キロメートルに位置する。藩士の大嶋小助が3代藩主佐竹義処より下賜された土地に建てた別荘を起源とし、当初は「得月亭(とくげつてい)」と称された。5代義峯の代に藩主が遊猟する際の休憩所として用いられたため、藩に献上され、庭園や建物が整備された。9代義和の時代にほぼ現在の姿へ庭園が整備され、藩士の那珂通博に園内十五景(紅霞洞、靄然軒、夕陽坡、観耕台、清風嶺、佩玉矼、仁源泉、超雪渓、玉鑑池、弓字径、渇虎石、巨鼈島、星槎橋、幽琴澗、清音亭)を選ばせた上で名を「如斯亭」と改めた[注釈 1]。この頃から久保田藩の迎賓館のような役割を果たすとともに、文人墨客たちの良き交遊の場として利用された。庭前の巨石は高野石、また、池の中に配置された雪見灯籠は250年ほど前のもので、東北地方における遠州流庭園の名園とされる。

廃藩置県により佐竹氏が東京へ転居した際、庭園は藩士の那波氏へ譲渡された。以降は民間所有となったが、1947年(昭和22年)に所有権を得た丸野内氏から2010年(平成22年)3月29日に秋田市へ無償譲渡された[2]

1952年(昭和27年)11月1日に県の史跡2007年(平成19年)2月6日には国の名勝に指定されている[3]

周辺は、かつては閑静な田園地帯だったが、今日では住宅が密集する市街地となっている。

沿革

  • 元禄年間(1688 - 1703年) - 3代藩主佐竹義処、家臣の大嶋小助に土地を下賜し、大嶋氏が別荘を建設する。
  • 寛保元年(1741年) - 大嶋氏から5代藩主義峯に献納され、藩主の御休所となる。
  • この間 - 倹約のため一時衰退する。
  • 安永4年(1775年) - 8代藩主義敦により復興される。
  • 年不詳 - 9代藩主義和が庭園として整備。那珂通博が園内十五景を選定すると共に、「如斯亭」と命名する。
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県に伴い、旧藩主義堯より那波氏へ譲渡される。
  • 1947年(昭和22年) - 丸野内氏の所有となる。
  • 1952年(昭和27年)11月1日 - 秋田県史跡に指定される。
  • 1964年(昭和39年) - 旅館 如斯亭が開業。
  • 1990年(平成2年) - 旅館 如斯亭が廃業。
  • 2007年(平成19年)2月6日 - 国の名勝に指定される。
  • 2010年(平成22年)3月29日 - 丸野内氏から秋田市へ寄贈される。
  • 2011年(平成23年)2月7日 - 国の名勝に追加指定される。

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 庭園は南に主屋である如斯亭を配置して北を正面とし、北方より東方にかけて新城山や太平山系を望見できるよう設計されている[1]

出典

外部リンク

座標: 北緯39度44分3.0秒 東経140度7分44.0秒 / 北緯39.734167度 東経140.128889度 / 39.734167; 140.128889



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「旧秋田藩主佐竹氏別邸」の関連用語

旧秋田藩主佐竹氏別邸のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



旧秋田藩主佐竹氏別邸のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
文化庁文化庁
Copyright (c) 1997-2025 The Agency for Cultural Affairs, All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの旧秋田藩主佐竹氏別邸 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS