請西藩
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請西藩(じょうざいはん)は、江戸時代後期に上総国に存在した藩。望陀郡請西村(現在の千葉県木更津市請西)の真武根陣屋(まふねじんや。請西陣屋とも)を藩庁とした。戊辰戦争時に藩主の林忠崇が新政府軍と交戦したため、戦後に改易された唯一の藩として知られる。
注釈
- ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
- ^ 里山辺の広沢寺境内に、光政が兎を捕らえた場所という「兎田」の碑がある。
- ^ 中島義一によれば、請西には藩主居館のみが移り、政務は貝淵でとられたといい、居所と政庁所在地が分離した例としている[3]。
- ^ ただし、大政奉還時には大名であったものの華族とされなかった例としては他に、安房船形藩主・平岡家がある。若年寄であった平岡道弘は、元治元年(1864年)に大名となったものの慶応4年(1868年)に自ら廃藩して徳川家に従い、のちに静岡藩大参事となった。
- ^ 「最後の大名」にはいくつかの解釈がある。分部光謙参照。
- ^ 中島は金ヶ崎藩庁の所在地を上総国八重原村南子安(字金ヶ崎)とするが[9]、「八重原村」は町村制施行後の村名である。
- ^ 中島は移転時期を明治元年8月とする[9]。
- ^ 1889年(明治22年)の町村制施行により、木更津村・貝淵村ほか1村が合併して木更津町が成立する。
出典
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二百十四「林」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.79。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第二百十四「林」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.77。
- ^ a b 中島義一 1965, p. 79.
- ^ “真武根陣屋遺址の概要”. 木更津市. 2020年2月7日閲覧。
- ^ 「松平容保城地ヲ没シ実子慶三郎ニ高三万石ヲ賜ヒ華族ニ列ス」 アジア歴史資料センター Ref.A15071356400
- ^ 『華族誕生』浅見雅男、リブロポート、1994年。p25
- ^ “「徳川家再興」に命を懸け、豊島区のアパートで死去した“最後の大名”の数奇な人生”. ダイアモンドオンライン. 2024年7月6日閲覧。
- ^ “最後の大名 時代を駆ける”. 歴史秘話ヒストリア. NHK. 2024年7月6日閲覧。
- ^ a b c 中島義一 1965, p. 78.
請西藩(幕末)
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上総国周淮郡のうち - 1村(桜井藩に編入) 望陀郡のうち - 17村(うち8村を桜井藩、3村を久留里藩、3村を鶴舞藩、2村を三河吉田藩、2村を三上藩に編入。なお相給が存在するため村数の合計は一致しない) 市原郡のうち - 13村(うち7村を菊間藩、5村を鶴舞藩、1村を桜井藩に編入) 上野国山田郡のうち - 1村(岩鼻県に編入)
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