宮谷県
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宮谷県(みやざくけん)は、1869年(明治2年)に安房国・上総国・下総国・常陸国内の旧幕府領の管轄のために明治政府によって設置された県。現在の千葉県南部・東部、茨城県南東部を管轄した。
本項では、前身の安房上総知県事についても解説する。
歴史
房総の戊辰戦争
慶応4年/明治元年(1868年)4月、江戸開城を不服とした旧幕府陸軍の一部が江戸を脱出した(いわゆる「幕府脱走兵」)[1]。そのうち一部が入り込んだ房総地域は騒然とした状況となった[2]。たとえば福田道直(八郎右衛門)ら「撤兵隊」は真里谷(現在の木更津市真里谷)を拠点として「徳川義軍府」を称し[1]、諸藩に出兵を促したり、金銭・食糧・兵器を徴発したりするなどした[2]。また、伊庭八郎・人見勝太郎に率いられた幕府遊撃隊も木更津に上陸した[3]。
房総半島には徳川譜代の中小諸藩が所在し、「勤王証書」を提出していたものの[4]、こうした状況下で新政府・旧幕府方の双方に対して曖昧な態度を取った[1]。旧幕府方に与する行動を起したのが木更津近くに陣屋を構える請西藩主林忠崇であり、忠崇が自ら脱藩する形をとって閏4月3日に挙兵、遊撃隊とともに内房を南下した[3]。この過程で、内房に拠点を置く諸藩は苦しい判断を迫られ、兵器・資金・物資を支援したり、士卒を脱藩の形で供出するなどした[3][注釈 1]。林忠崇らは館山から海を渡り小田原に向かった[3][注釈 2]。
一方、木更津から北上した撤兵隊は閏4月3日の市川・船橋戦争、ついで同月6日から7日にかけての五井戦争において、新政府軍に打ち破られた[4]。これらの戦闘での新政府軍勝利以後、房総諸藩は新政府への帰順を鮮明にしていくことになる[1]。以後も小規模な騒乱は続くが[4]、新政府は房総の平定を進め[4]、おおむね9月には平穏に復したとされる[4]。
安房上総知県事
慶応4年/明治元年(1868年)7月2日、上州軍監を務めていた[5]久留米藩士柴山典(文平)が安房上総知県事(上総房州監察兼知県事[5]、当時の史料では「房総知県事」などの名でも記されている[4])に任命された[4]。柴山は上総国市原郡八幡宿(現・千葉県市原市八幡)に赴いたというが[6]、発足当初の安房上総知県事の役所は東京の深川に置かれ[4]、その後八幡に進駐したとする説もある[4][7]。
安房上総知県事の任務は、房総に所在する旧幕府(徳川家)領および旧旗本領の統治である。知県事は、民政や収税にあたるほか、管内の刑罰権などを保持しており、府県兵の管理も行った[4]。ただし実務面では旧幕府時代の行政と大きく変わることはなく、行政文書の伝達も組合村大惣代を通して行われた[4]。
これに先立つ5月に新政府は徳川宗家当主徳川家達(田安亀之助)に駿府城を与え、70万石の領主として駿河・遠江に入ることを認めた(駿府藩)。これにともなう措置として、従来駿遠に所在していた諸藩は房総に移転することとなり[注釈 3]、安房上総知県事はその引継ぎを担うこととなった。
8月、知県事役所は埴生郡長南宿の浄徳寺境内(現・長生郡長南町長南575)に移転[4][7]。12月16日[6][7]、上総に移転した旧浜松藩(鶴舞藩)に事務引継ぎを行い[7][注釈 4]、山辺郡大網宿字西宮谷(現・千葉県大網白里市大網3002)の宮谷檀林本国寺[注釈 5]の学寮[5]を知県事役所とした[6]。
宮谷県の設置
1869年(明治2年)2月9日、知県事柴山典の管轄地域は宮谷県と命名され[5][6](2月20日説もある[6])、安房・上総・下総[注釈 6]・常陸[注釈 7]4国内の藩領を除く地域(旧幕府領・旗本領)を管轄する本格的な行政組織となった。
県庁は引き続き本国寺に置かれたが、県庁の規模が拡張され、本堂(旧宮谷檀林大講堂)以外の諸堂宇が接収された[5]。常陸国にまでまたがる県の管轄地域は広大であり、大網では位置が偏っていて不便であるとして、明治3年(1870年)11月には佐倉藩飛び地領の佐原(現在の佐原市)に県庁を移転できないか政府に伺いを出しているが、許可を与えられなかった[6]。
柴山は、県内部の抗争である宮谷騒動により1871年(明治4年)7月に罷免され、龍野藩士の柴原和が後任の知事に就任した(詳細は柴山典の項目を参照)。
1871年(明治4年)11月、第1次府県統合にともなう木更津県、新治県の設置により廃止。柴原は木更津県の権令を引き続き務め、後に千葉県の初代権令、初代県令となり、現在の千葉県の基礎を築いた。
年表
- 1868年(慶応4年)
- 1868年(明治元年)12月16日 - 県庁仮庁舎を山辺郡大網宿宮谷の本国寺に移転。
- 1869年(明治2年)2月9日 - 宮谷県が発足。柴山典を知事に任命(一時は権知事に)。
- 1871年(明治4年)
管轄地域
合計37万1,000石。戸口51,297戸281,077人(府藩県別人員表)。常陸国以外の地域の詳細は各郡の項目を参照。
なお相給が存在するため、村数の合計は一致しない。
歴代知事
安房上総知県事
宮谷県
- 1869年(明治2年)2月9日 - 1869年(明治2年)7月20日 : 知県事・柴山典
- 1869年(明治2年)7月20日 - 1871年(明治4年)5月17日 : 権知事・柴山典[9]
- 1871年(明治4年)5月17日 - 1871年(明治4年)7月27日 : 知事・柴山典[10]
- 1871年(明治4年)7月27日 - 1871年(明治4年)11月13日 : 知事・柴原和(龍野藩士)
脚注
注釈
- ^ 前橋藩富津陣屋、飯野藩、佐貫藩、安房勝山藩、館山藩。のちに責任者が切腹したり、派遣した士卒が戦死したり、あるいは帰郷後に処罰を受けたりといった波乱に巻き込まれることとなった[3]。
- ^ 林忠崇はその後各地を転々としたのち、明治元年(1868年)10月に降伏した[4]。
- ^ 駿河沼津藩→上総菊間藩(5万石)、駿河小島藩→桜井藩(1万石)、駿河田中藩→安房長尾藩(4万石)、遠江相良藩→上総小久保藩(1万石)、遠江掛川藩→上総松尾藩(5万石)、遠江横須賀藩→安房花房藩(3万5000石)、遠江浜松藩→上総鶴舞藩(6万石)
- ^ 旧浜松藩主井上正直の新領地到着は明治2年2月11日であり、その間は安房上総知県事が井上領の統治を行っていたとする叙述もある[8]。
- ^ 僧侶の養成機関である宮谷檀林を置く、日蓮宗の大寺である。本国寺境内は「宮谷県庁跡」として県指定史跡(1954年指定)となっている。
- ^ 匝瑳郡・香取郡・海上郡[6]。同時期に「下総県知事」(ただし下総国の一部は「常陸県知事」の管轄下にあった)の管轄地域が葛飾県と命名されている。
- ^ 河内郡・信太郡・行方郡・鹿島郡[6]。なお、同時期に「常陸県知事」の管轄地域が若森県と命名されている。
出典
- ^ a b c d “戊辰市川・船橋戦争”. 船橋市西図書館郷土資料室. 2021年9月22日閲覧。
- ^ a b “戊辰戦争と房総”. 長柄町史(ADEAC所収). 2021年9月22日閲覧。
- ^ a b c d e “勝山藩の戊辰戦争”. 鋸南町. 2025年10月12日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m “房総知県事”. 長柄町史(ADEAC所収). 2021年9月22日閲覧。
- ^ a b c d e “宮谷県庁跡”. 千葉県教育委員会. 2021年9月22日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “宮谷県”. 大網白里町史(ADEAC所収). 2021年9月22日閲覧。
- ^ a b c d “文化財・記念物”. 長南町. 2021年9月22日閲覧。
- ^ “鶴舞藩”. 長柄町史(ADEAC所収). 2021年9月22日閲覧。
- ^ 「任解日録」明治2年7月20日 - 宮内庁宮内公文書館
- ^ 「任解日録」明治4年5月17日 - 宮内庁宮内公文書館
関連項目
先代 (安房国・上総国および 下総国・常陸国の一部の 幕府領・旗本領) 船形藩 |
行政区の変遷 1868年 - 1871年 (安房上総知県事→宮谷県) |
次代 木更津県(安房国・上総国) 新治県(下総国・常陸国) |
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