宮谷県の設置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/06 06:38 UTC 版)
1869年(明治2年)2月9日、房総知県事の管轄地域は宮谷県と命名された(2月20日説もある)。柴山典(文平)が知事に任命され、安房・上総・下総・常陸4国内の旧幕府領・旗本領を管轄する本格的な行政組織となった。 県庁は引き続き本国寺に置かれたが、県庁の規模が拡張され、本堂(旧宮谷檀林大講堂)以外の諸堂宇が接収された。常陸国にまでまたがる県の管轄地域は広大であり、大網では位置が偏っていて不便であるとして、明治3年(1870年)11月には佐倉藩飛び地領の佐原(現在の佐原市)に県庁を移転できないか政府に伺いを出しているが、許可を与えられなかった。 柴山は、県内部の抗争である宮谷騒動により1871年(明治4年)7月に罷免され、龍野藩士の柴原和が後任の知事に就任した(詳細は柴山典の項目を参照)。 1871年(明治4年)11月、第1次府県統合にともなう木更津県、新治県の設置により廃止。柴原は木更津県の権令を引き続き務め、後に千葉県の初代権令、初代県令となり、現在の千葉県の基礎を築いた。
※この「宮谷県の設置」の解説は、「宮谷県」の解説の一部です。
「宮谷県の設置」を含む「宮谷県」の記事については、「宮谷県」の概要を参照ください。
- 宮谷県の設置のページへのリンク