長尾藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/05/31 18:46 UTC 版)
長尾藩(ながおはん)は、明治維新期の短期間、安房国に存在した藩。1868年に駿河田中藩主本多家[注釈 1]が4万石で移封され、1871年の廃藩置県まで存続した。藩庁ははじめ長尾陣屋(現・千葉県南房総市白浜町滝口[1])に置かれ、のち北条陣屋(現・館山市北条)[注釈 2]に移転した。
本記事では廃藩後に設置された長尾県(ながおけん)についても言及する。
歴史
立藩から廃藩まで
慶応4年5月(1868年)、徳川宗家当主徳川家達は新政府より駿河・遠江に封じられ、70万石の駿府藩主となった。これに伴い、7月には駿河田中藩4万石の藩主であった本多
安房国への移転にあたり、兵学者である藩士恩田仰岳の選定によって、軍事的な観点から白浜に近い滝口の要害の地に陣屋(長尾陣屋、あるいは長尾城[3])を建設し、藩庁を置くこととなった[1][4]。ここに長尾藩が立藩された。
安房国での仮役所は朝夷郡白浜村(南房総市白浜町白浜)の法界寺に置かれた[5]。急な移転命令であったために移転先の準備は整わず、藩主正訥や藩士の多くはしばらくのあいだ藤枝宿の寺院に止宿した[6]。藩士の安房移住が本格化するのは、翌年からであった。
明治2年6月(1869年)、正訥は版籍奉還を行なって知藩事となる。同年夏、台風によって建設中の長尾陣屋が倒壊した[1][4]。長尾への陣屋建設には土地の狭隘さや交通の不便などの面から当初から反対論も強かったが、陣屋倒壊によって恩田仰岳は譴責を受け、反対論が主導権を握った[1][4]。明治3年正月(1870年)以降[7]、北条村鶴ヶ谷にあった海防陣屋(鶴ヶ谷陣屋、北条陣屋とも[8])を改修し[9]、新たな藩庁や藩士居住地の建設が進められた。5月には藩知事正訥が北条陣屋に着任、11月には長尾から北条へ藩庁が完全に移転した[10]。
この間の明治2年9月(1869年)、田中藩時代の藩校「日知館」を引き継ぐ藩立学校を白浜村に設置し、北条村と北朝夷村(現・南房総市千倉町北朝夷)に分校を設けた。長尾藩「日知館」では藩士子弟の就学を義務とするとともに、希望する地元住民にも門戸を開いていた[11][12]。
長尾県
翌明治4年7月(1871年)、廃藩置県により長尾藩は廃藩となって長尾県となる。同年11月、長尾県は木更津県に編入され、のちに千葉県に組み込まれた。なお、北条陣屋は新暦1874年(明治7年)まで県の出張所として使用された[2]。
歴代藩主・知藩事
- 本多家
旧譜代、4万石
廃藩時点の領地
なお、いずれも相給が存在するため、村数の合計は一致しない。
その他
脚注
注釈
出典
- 1 2 3 4 “長尾陣屋”. 房州長尾藩 ―明治維新の大名と武士たち―. 館山市立博物館. 2022年11月13日閲覧。
- 1 2 『房総における近世陣屋』, pp. 85–86.
- ↑ 『房総における近世陣屋』, pp. 89–90.
- 1 2 3 “長尾藩と仰岳”. 恩田仰岳 幕末維新期の兵学者. 館山市立博物館. 2022年11月13日閲覧。
- ↑ 領主 - 富山町史(南房総資源辞典)
- ↑ “駿州から房州へ -房州長尾藩-”. 房州長尾藩 ―明治維新の大名と武士たち―. 館山市立博物館. 2022年11月13日閲覧。
- ↑ “長尾藩略年表”. 房州長尾藩 ―明治維新の大名と武士たち―. 館山市立博物館. 2022年11月13日閲覧。
- ↑ 『房総における近世陣屋』, p. 102.
- ↑ “(5)鶴ヶ谷陣屋跡(北条・八幡)”. 安房の近代をさきがけたまち ―北条―. 館山市立博物館. 2022年11月13日閲覧。
- ↑ “北条陣屋”. 房州長尾藩 ―明治維新の大名と武士たち―. 館山市立博物館. 2022年11月13日閲覧。
- ↑ “武芸と文芸-藩士の生活-”. 房州長尾藩 ―明治維新の大名と武士たち―. 館山市立博物館. 2022年11月13日閲覧。
- 1 2 維新前後の動き - 和田町史(南房総資源辞典)
- ↑ 師宣の秘蔵浮世絵も登場 2月、館山市博・分館オープン - asahi.com 2011年1月26日
参考文献
- 『千葉県教育振興財団研究紀要 第28号 房総における近世陣屋』千葉県教育振興財団、2013年。
関連項目
外部リンク
- 房州長尾藩-明治維新の大名と武士たち- - たてやまフィールドミュージアム(館山市立博物館)
- 長尾藩の史跡をめぐる - たてやまフィールドミュージアム
| 先代 (安房国) (藩としては田中藩) |
行政区の変遷 1868年 - 1871年 (長尾藩→長尾県) |
次代 木更津県 |
固有名詞の分類
- 長尾藩のページへのリンク