八戸藩
八戸藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/16 15:37 UTC 版)
八戸藩の領内の行政区分は盛岡藩と同様に「通制」を用い、勘定頭が代官を指揮して民政の当たる。各区域には各2名ずつ代官が置かれていたが、領外(飛地)の志和については4名に増員された。 八戸藩の行政区町奉行 八戸城下 八戸廻 三戸郡 18ヵ村 九戸郡 1ヵ村 長苗代通 三戸郡 12ヵ村 名久井通 三戸郡 11ヵ村 軽米通 九戸郡 19ヵ村 久慈通 九戸郡 18ヵ村 志和 志和郡 4ヵ村
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八戸藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 21:27 UTC 版)
八戸藩では、宝暦年間のうちでも損害額が1万石以上という年が宝暦3年(1753年)、宝暦5年、宝暦12年(1762年)と3回あり、いずれも大凶作であったが、特に宝暦5年秋から翌6年の夏にかけての飢饉の被害が著しかった。 旱魃や害虫の被害が領内を襲い、宝暦5年4月中旬からはヤマセが吹いた。5月上旬からは大雨が降り続き、同20日から23日にかけて洪水となって、川欠・山崩れなど大きな被害が出た。6月上旬から8月中旬にかけて冷たい「東北風」が吹いて、毎日雨が降り続いた。8月16日と17日には大霜が降り、その後も天候不順が続いた。稗や蕎麦の実入りはあったが、稲は出穗が無く、青立ちとなった。これらの被害によって、表高2万石のうち1万8573石の損毛高を幕府に書き上げている。 領民は葛や蕨の根を掘り、橡の実の粥、楢の実の餅を食べて飢えを凌いだ。困窮のため盗人や追剝、強盗が多く発生し、藩の家中への扶持も、米に代わって粟・稗が支給された。 宝暦5年10月、久慈地方の百姓から雑穀と味噌拝借願が出されたが、藩は雑穀の有り合せが無いと断り、味噌を嘆願の半分だけ認めた。同6年3月に軽米通から出された種籾の拝借願は、領内一同のことなので面倒を見きれないとして却下した。その一方で年貢の取り立ては厳しく、11月に代官に対して、凶年のため上納がはかどらず難渋するかもしれないが、家中扶持米を確保しなければならないので、取り立てに尽力せよと命じ、上納できない百姓は潰してもかまわないと述べた。同6年1月、八戸廻の百姓が年貢残金の延納を願い出たが、これも却下している。なお、八戸藩は幕府に米の拝借を願い出たが許可されなかった。この飢饉による餓死者は7000人と伝わる。
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八戸藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 23:31 UTC 版)
詳細は「八戸藩」を参照 近世には盛岡藩から八戸藩が分立するが、これは、盛岡南部氏の当主南部重直が、実子、養子の死後、将軍 徳川家綱に面会して後継者選定と家の存続を願い、それに基づき重直の死後に家綱が裁定して、寛文4年(1664年)12月に重直の異母弟の南部重信に2万石減封して盛岡8万石を与えて家を相続させ、同じく異母弟(重信とも異母兄弟)の南部直房に新知として八戸2万石を与え、事実上の分割相続を行った際に創立したものである。 直房の子の南部直政は、将軍 徳川綱吉の側衆を経て側用人となり、江戸時代において南部氏で唯一、幕政に参画した。重信は後に幕府に盛岡藩の高直しを願い出て、八戸藩を含まずに、8万石から10万石となっている。
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