八戸藩領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/10/24 09:24 UTC 版)
久慈から八戸城下への本道は山間の道である「久慈街道」を経由していた。この他に八戸城下へは、浜街道と称される2つの道があり、近世中期頃までの主要道としては、海辺道と呼ばれていた、種市中心部の南、鹿糠から山手の城内地区に入り、そこから八戸に至る「新井田街道(別称 浜街道)」があったが、九戸郡侍浜以北の海岸部には、盛岡藩北野牧や八戸藩広野牧などの原野に放牧していた藩営牧場があり通行が制限されており、幕末期には、鉄・塩などの流通拡大や港湾利用の増加により、もう一つの海沿いの各集落を北上し、八戸城下にいたる「海岸通り」が主要道となっていった。また明治以降、新井田街道が国道へ編入され、海沿いの街道と並行して国鉄八戸線が敷設されたことにより、立場が逆転した。
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