八戸順叔の謎
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日・清・朝三国の外交問題にまで発展した事件の端緒は、八戸順叔なる謎の日本人が広州の新聞に寄稿したという「征韓論」の記事である。ところが、実はこの記事は現在に至るまで、その原文が見つかっていない。現在伝わるのは清朝総理衙門による引用文(照録)のみであり、果たして本当にそのような記事が存在したのか、実際に日本人が書いた記事なのか、そして八戸順叔という人物がいったい何者なのかなど、定かでないことが多い。 田保橋潔の『近代日鮮関係の研究 上巻』(1940年)は、問題の記事は同治5年広東で発行されていた『中外新聞』の12月12日版に掲載されたとする。しかし当時、広東には『中外新聞』という新聞は存在していなかった。曽虚白『中国新聞史』によれば、『中外新聞』は広州ではなく、寧波で発行されていた新聞である。似た名前の『中外新聞七日報』という新聞(The China Mail(徳臣報)の中文版)もあるが、これは1871年3月に陳藹廷が創刊したものであり、問題が発生した1866年の時点ではまだ存在していない。ほかに当時の新聞としては『香港船頭貨価紙』(1857年11月2日創刊)、『中外新報』(1858年創刊。英字新聞『孖剌報(Daily Press)』の中文版)、『中外雑誌』(1862年創刊)、『香港中外新報』(1864年9月から1865年4月までの間に創刊)などがあったが、いずれも広州ではなく香港紙であり、また現存する紙面にも該当する記事は掲載されていない。清国礼部から朝鮮への密咨に附された新聞照録5件に関しても、新聞名や日付の記載がなく、どの新聞から転載されたのかは不明である。 いっぽう八戸順叔という人物は、さらに謎の存在である。当時香港在住の日本人に八戸順叔という人物がいたという記録は存在していない。また日本側の同時代の諸史料にも全く記載がなく、姓名の正確な読み方すら不明である。慶応3年2月8日(1867年3月13日)、幕府から上海へ派遣された調査団の名倉予何人らが、当時上海に在留していた八戸順叔に接触したというが、詳細は不明である。いっぽう煙山専太郎『征韓論実相』(1907年)では「我九州の人、八戸順叔なる者(此人、曽て米国に遊びし事あり)上海にあり、日本政府、此議ありと聞き、軽率にも之を誇張して地の清国新聞に投書せしかば(以下略)」(120頁)とあり、八戸を九州出身の人物で、幕末に一時米国に滞在し上海で新聞に投書したとしている。九州には日向国(現宮崎県)北部に八戸(やと)という地名が存在するが(西臼杵郡日之影町)、関連は不明である。また田保橋『近代日鮮関係の研究』では、"旧幕府遺老"の言として「代官手代八戸厚十郎の三男で、後姓を大陽寺(?)に改め、明治維新の際、上野国高崎藩の雇士となり、藩制改革に参与し、後東京府及び地方の属官に任ぜられた。幕末に数度ヨーロッパに渡航した経験がある」としている(なお同書は、至る所で典拠をきわめて明確に示した名著であるが、この部分は「旧幕府遺老の言」と言葉を濁して、出典を明らかにしていない)。しかし、上記の断片的な情報を総合しても、幕末から明治初期にかけてヨーロッパへ渡航した日本人の記録の中に、九州出身の八戸順叔という人物は全く見当たらないのである。 一方で、この時期に日本から香港へ渡った八戸姓の人物に、八戸喜三郎という者がいた。横浜イギリス総領事館付の英国国教会牧師バックワース・ベイリーが発行していた木版和綴本の日本語新聞『万国新聞』によれば、八戸喜三郎(やと きさぶろう)は「香港に在住し、八丈島漂流人のために尽力・周旋した人物である。慶応3年2月に日本諸藩の武士70人とともに南京金陵に赴き、支那政府より士官に任ぜられた。英語に通じ、対話はほぼ英国人のようである」という。他方、米国総領事館の書記生で、後にハワイへの日本人移民「元年者」に関わったオランダ系アメリカ商人ヴァン・リードが、1865年に持病の結核療養のため、サンフランシスコに帰国する際、八戸喜三郎(ヤベ キサボロー、Yabe Kisaboro)という日本人が同行しており、上記の八戸喜三郎と同一人物と思われる。喜三郎らはハワイに寄港した後、サンフランシスコに到着。ヴァン・リードがサンフランシスコで療養滞在中に、彼の故郷であるレディングを訪問。さらにロングアイランドに渡り刑務所の見学を行っており、香港に移住後に米国の刑務所に関するレポートを寄稿し、「僕前年ウエンリードなるものの導きに依りて彼国に遊び実見する所なれば」と記している(『万国新聞』1867年6月号)。1866年1月にヴァン・リードと八戸は、サンフランシスコからハワイ経由で日本に向かうが、3月4日船がウェーク島沖で座礁沈没し、27日二人が乗るボートがグアム島に漂着して九死に一生を得たという。その後ヴァン・リードは6月に横浜に到着している。以上を総合すれば八戸喜三郎は、1865年に渡米、1866年に日本帰国に際して漂流、1867年に南京へ移住し、その間しばしば新聞に寄稿していた人物ということになる。1866年暮れに広州の新聞に記事を出稿し、翌年2月に上海で幕府使節と接触したという八戸順叔の行動とは若干齟齬があるものの、李相哲は「八戸順叔」はおそらく喜三郎の筆名であろうとし、英字紙"The China Mail"内に中国語で記事を載せる「中外新聞」という欄があって、そこに八戸の記事が掲載されたのではないかと推測している。 一方、姜範錫は八戸順叔の正体を日系アメリカ人浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)と推測する。これは浜田が横浜で英字新聞を翻訳した『海外新聞』を発行しており、海外の新聞記事に詳しかったこと。例の記事中に中浜万次郎の名が挙がっているが、同様の渡米・滞米経験を持ち共通点が多い浜田なら言及の可能性が高いこと。また八戸(ハッコ)とヒコ、順叔(ジュンシュク)とジョセフは音が近いことなどを理由としているが、いささか牽強附会の感を免れない。 清朝の外交を司る国家機関である総理衙門が、無から事件を捏造したとは考えづらく、八戸順叔という人物がこの頃香港・南京・上海など南清の港湾都市のいずれかに滞在し、またその八戸が書いた何らかの記事は存在していたと思われる。しかしこの外交問題の大元となった記事の原文が見つかっていないこと、そして記事を書いた八戸順叔という人物の正体が不明であるということは、注意を要する。 現在の青森県に八戸市という街があるが、現在の青森県の藩であった津軽藩の津軽氏にはこの頃、歴代藩主や家臣ら、例を挙げるなら藩主の津軽順承や家老家の津軽順朝など「順」の字を名乗るものが多く、また津軽順朝の子で津軽黒石藩を継承した津軽承叙も存在する。ただし、現在の八戸市自体は当時、盛岡藩南部氏の支藩である八戸藩の支配地域であり、津軽氏とは関係が無い。さらに古くに存在した南部氏の一族である八戸氏もこの当時は南部氏(遠野南部氏)を名乗っており、少なくとも八戸氏本家は八戸姓を使用していないが、青森県内には現在も八戸姓が多数存在するなど、当時の津軽藩周辺にも八戸姓の人物が存在した可能性はある。
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