八戸順叔の謎とは? わかりやすく解説

八戸順叔の謎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 20:57 UTC 版)

八戸事件」の記事における「八戸順叔の謎」の解説

日・清・朝三国外交問題にまで発展した事件端緒は、八戸順叔なる謎の日本人広州新聞寄稿したという「征韓論」の記事である。ところが、実はこの記事現在に至るまで、その原文が見つかっていない。現在伝わるのは清朝総理衙門による引用文(照録)のみであり、果たし本当にそのような記事存在したのか、実際に日本人書いた記事なのか、そして八戸順叔という人物がいったい何者なのかなど、定かでないことが多い。 田保橋潔の『近代日鮮関係の研究 上巻』(1940年)は、問題の記事同治5年広東発行されていた『中外新聞』の12月12日版に掲載されたとする。しかし当時広東には『中外新聞』という新聞存在していなかった。曽虚白中国新聞史』によれば、『中外新聞』は広州ではなく寧波発行されていた新聞である。似た名前の『中外新聞七日報』という新聞(The China Mail(徳臣報)の中文版)もあるが、これは1871年3月に陳藹廷が創刊したものであり、問題発生した1866年時点ではまだ存在していない。ほかに当時新聞としては『香港船頭貨価紙』(1857年11月2日創刊)、『中外新報』(1858年創刊英字新聞『孖剌報(Daily Press)』の中文版)、『中外雑誌』(1862年創刊)、『香港中外新報』(1864年9月から1865年4月までの間に創刊)などがあったが、いずれも広州ではなく香港紙であり、また現存する紙面にも該当する記事掲載されていない清国礼部から朝鮮への密咨に附され新聞照録5件に関しても、新聞名や日付記載がなく、どの新聞から転載されたのかは不明である。 いっぽう八戸順叔という人物は、さらに謎の存在である。当時香港在住日本人八戸順叔という人物がいたという記録存在していない。また日本側の同時代の諸史料にも全く記載がなく、姓名正確な読み方すら不明である。慶応3年2月8日1867年3月13日)、幕府から上海へ派遣され調査団名倉何人らが、当時上海在留していた八戸順叔に接触したというが、詳細不明である。いっぽう煙山専太郎征韓論実相』(1907年)では「我九州の人、八戸順叔なる者(此人曽て米国遊びし事あり)上海にあり、日本政府、此議ありと聞き軽率にも之を誇張して地の清国新聞投書せしかば(以下略)」(120頁)とあり、八戸九州出身の人物で、幕末一時米国滞在し上海新聞投書したとしている。九州には日向国(現宮崎県北部八戸(やと)という地名存在するが(西臼杵郡日之影町)、関連不明である。また田保近代日鮮関係の研究』では、"旧幕府遺老"の言として「代官手代八戸十郎三男で、後姓を大陽寺(?)に改め明治維新の際、上野国高崎藩の雇士となり、藩制改革参与し、後東京府及び地方属官に任ぜられた。幕末数度ヨーロッパ渡航した経験がある」としている(なお同書は、至る所典拠きわめて明確に示した名著であるが、この部分は「旧幕府遺老の言」と言葉を濁して出典明らかにていない)。しかし、上記断片的な情報総合しても、幕末から明治初期にかけてヨーロッパへ渡航した日本人記録中に九州出身八戸順叔という人物は全く見当たらないのである一方で、この時期日本から香港渡った八戸姓の人物に、八戸喜三郎という者がいた。横浜イギリス総領事館付の英国国教会牧師バックワース・ベイリーが発行していた木版和綴本日本語新聞万国新聞によれば八戸喜三郎(やと きさぶろう)は「香港在住し八丈島漂流人のために尽力周旋し人物である。慶応3年2月日本諸藩武士70とともに南京金陵に赴き、支那政府より士官に任ぜられた。英語に通じ対話はほぼ英国人のようである」という。他方米国総領事館書記生で、後にハワイへの日本人移民元年者」に関わったオランダ系アメリカ商人ヴァン・リードが、1865年持病結核療養のため、サンフランシスコ帰国する際、八戸喜三郎ヤベ キサボロー、Yabe Kisaboro)という日本人同行しており、上記八戸喜三郎同一人物思われる喜三郎らはハワイ寄港した後、サンフランシスコ到着ヴァン・リードサンフランシスコ療養滞在中に彼の故郷であるレディング訪問。さらにロングアイランド渡り刑務所見学行っており、香港移住後米国刑務所に関するレポート寄稿し、「僕前年ウエンリードなるものの導きに依りて彼国に遊び実見する所なれば」と記している(『万国新聞1867年6月号)。1866年1月ヴァン・リード八戸は、サンフランシスコからハワイ経由日本に向かうが、3月4日船がウェーク島沖で座礁沈没し27日二人乗るボートグアム島漂着して九死に一生得たという。その後ヴァン・リード6月横浜到着している。以上を総合すれば八戸喜三郎は、1865年渡米1866年日本帰国に際して漂流1867年南京移住しその間しばしば新聞寄稿していた人物ということになる。1866年暮れ広州新聞記事出稿し、翌年2月上海幕府使節接触したという八戸順叔の行動とは若干齟齬があるものの、李相哲は「八戸順叔」はおそらく喜三郎筆名であろうとし、英字紙"The China Mail"内に中国語記事載せる中外新聞」というがあって、そこに八戸記事掲載されたのではないか推測している。 一方、姜範錫は八戸順叔の正体日系アメリカ人浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)と推測する。これは浜田横浜英字新聞翻訳した海外新聞』を発行しており、海外新聞記事詳しかったこと。例の記事中中浜万次郎の名が挙がっているが、同様の渡米・滞米経験持ち共通点が多い浜田なら言及可能性が高いこと。また八戸ハッコ)とヒコ、順叔(ジュンシュク)とジョセフは音が近いことなどを理由としているが、いささか牽強附会の感を免れない清朝外交司る国家機関である総理衙門が、無から事件捏造したとは考えづらく、八戸順叔という人物この頃香港南京上海など南清港湾都市いずれかに滞在し、またその八戸が書いた何らかの記事存在していたと思われる。しかしこの外交問題大元となった記事原文が見つかっていないこと、そして記事書いた八戸順叔という人物の正体不明であるということは注意要する現在の青森県八戸市という街があるが、現在の青森県の藩であった津軽藩津軽氏にはこの頃歴代藩主家臣ら、例を挙げるなら藩主津軽順承家老家津軽順朝など「順」の字を名乗るものが多く、また津軽順朝の子津軽黒石藩継承した津軽承叙存在する。ただし、現在の八戸市自体当時盛岡藩南部氏支藩である八戸藩支配地域であり、津軽氏とは関係が無い。さらに古く存在した南部氏一族である八戸氏もこの当時南部氏遠野南部氏)を名乗っており、少なくとも八戸氏本家八戸姓を使用していないが、青森県内には現在も八戸姓が多数存在するなど、当時津軽藩周辺にも八戸姓の人物存在した可能性はある。

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「八戸順叔の謎」を含む「八戸事件」の記事については、「八戸事件」の概要を参照ください。

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