八戸藩の被害人数とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 八戸藩の被害人数の意味・解説 

八戸藩の被害人数

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 21:27 UTC 版)

宝暦の飢饉」の記事における「八戸藩の被害人数」の解説

この飢饉餓死者は4000人から5000人、または5000人から6000人、あるいは7000人におよんだとも、5万6000人ともいわれる宝暦4年2月集計では65621人だった人口が、宝暦6年12月には45367人となり一時的な他領逃亡者含めて20000人の人口となった幕府には、被害1万8000石を上回る報告した一部地域では、軽米通では行方不明者611人、明家389軒、餓死1900人(男1123人、女777人)、久慈通は行方不明者230人、明家125軒、餓死507人(男275人、女232人)だった。 八戸城下や周辺非人が行倒れて死亡したという記述が「藩日記」にあり、特に宝暦5年11月から翌6年4月集中的に見られた。5月13日によれば11月以来八戸周辺糠塚湊村新井田柏崎村是川村の各名主触所分において46人(男39人、女7人)が倒れ死にしたとある。宝暦6年2月には、湊村乙名名主から、上流から餓死者の遺骸流れてきており、これでは海中の穢になるので発見次第無縁の者として穴を掘って埋葬したいという願い出されていた。 城下には乞食非人化した飢人が流入し、彼らに対して寺院10か寺による「接待」が2月30日から5月1日朝まで行われた。その経費食料寺院持ち出しのほか町・家中の托鉢と藩からの下付金で賄おうというものだった。飢人の「接待終了時残っていた215人の非人は、それぞれの居村返された。城下町居住の「不相続の者」は、「惣町」の乙名たちの相談によって金持ちが金を出し合って困窮者に貸し付ける町内助力者がいない場合は、藩が御助米として1人に稗を片馬ずつ与えるとした。 藩ではこれまでの豊作により穀物多く保有され、銭100文で稗1俵という下値だったが、宝暦5年6月ごろから商人たち々に入って雑穀を買い集めたため相場急騰した4月8日の市では稗8斗に1貫文にまで上ったため、蓄え含めて全て売り払ってしまったといい、これが餓死者を多く出した理由考えられている。

※この「八戸藩の被害人数」の解説は、「宝暦の飢饉」の解説の一部です。
「八戸藩の被害人数」を含む「宝暦の飢饉」の記事については、「宝暦の飢饉」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「八戸藩の被害人数」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「八戸藩の被害人数」の関連用語

八戸藩の被害人数のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



八戸藩の被害人数のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの宝暦の飢饉 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS