八戸藩の被害人数
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この飢饉で餓死者は4000人から5000人、または5000人から6000人、あるいは7000人におよんだとも、5万6000人ともいわれる。宝暦4年2月の集計では6万5621人だった人口が、宝暦6年12月には4万5367人となり、一時的な他領逃亡者を含めて約20000人の人口減となった。幕府には、被害は1万8000石を上回ると報告した。 一部地域では、軽米通では行方不明者611人、明家389軒、餓死者1900人(男1123人、女777人)、久慈通は行方不明者230人、明家125軒、餓死507人(男275人、女232人)だった。 八戸城下や周辺村に非人が行き倒れて死亡したという記述が「藩日記」にあり、特に宝暦5年11月から翌6年4月に集中的に見られた。5月13日条によれば、11月以来、八戸周辺の糠塚村・湊村・新井田村・柏崎村・是川村の各名主触所分において46人(男39人、女7人)が倒れ死にしたとある。宝暦6年2月には、湊村の乙名・名主から、上流から餓死者の遺骸が流れてきており、これでは海中の穢になるので発見次第無縁の者として穴を掘って埋葬したいという願いも出されていた。 城下には乞食や非人化した飢人が流入し、彼らに対して寺院10か寺による「接待」が2月30日から5月1日朝まで行われた。その経費・食料は寺院の持ち出しのほか町・家中の托鉢と藩からの下付金で賄おうというものだった。飢人の「接待」終了時に残っていた215人の非人は、それぞれの居村に返された。城下町居住の「不相続の者」は、「惣町」の乙名たちの相談によって金持ちが金を出し合って困窮者に貸し付ける。町内に助力者がいない場合は、藩が御助米として1人に稗を片馬ずつ与えるとした。 藩ではこれまでの豊作により穀物が多く保有され、銭100文で稗1俵という下値だったが、宝暦5年6月ごろから商人たちが村々に入って雑穀を買い集めたため相場が急騰した。4月8日の市では稗8斗に1貫文にまで上ったため、蓄えも含めて全て売り払ってしまったといい、これが餓死者を多く出した理由と考えられている。
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