ちょう‐か〔チヤウ‐〕【町家】
まち‐や【町家/町屋】
町家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/01 16:11 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動町家(まちや、ちょうか)
町家(まち け)
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町家(商家)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:11 UTC 版)
旧尾藤家住宅 1865年(慶応元年)棟上げ。ちりめん街道の中ほどでに敷地を構え、その表構えはちりめん街道の町並みの象徴である。その規模は大きく、近世から近代にかけてのちりめん街道の歴史の変遷を知るうえで非常に重要な遺構である。 旧尾藤家住宅 旧尾藤家住宅内 杉本和繁家住宅 1901年(大正5年)以前に建てられたとされる各建物で構成。現在の主屋は明治期の建築であると伝わる。当時「織工集会所」「既設工場」「寝室」として1901年(大正5年)4月に、宮津警察署宛に提出した書類(杉本成史家文書)が残されている。主屋、主屋の裏側(西より)に工場。またさらに2棟あり、男工宿舎とされていた建物となっている。南側の1棟は、現在、杉本成史氏の所有となっている。 杉本成史家住宅 主屋はちりめん街道に面す。主屋の西隣には当家所有の工場が建っており、かつての西山第一工場と西山第三工場がある。杉本和繁家所有の西山第二工場とあわせて西山工場とかつて呼ばれていた。 杉本啓家住宅 宝巌寺と街道をはさむ向かいの杉本家は1887年(明治20年)から、1901年(明治34年)にかけて縮緬業を営んでおり、その頃の建築であるとみられる。 下村哲人家住宅 加悦公民館の東側ちりめん街道が折れ曲がる南西角に位置。下村家は屋号を「角屋」と称し、明治初期に北前線による廻船問屋を営む。一時期は当主の相次ぐ死や訴訟の問題などで、混乱状態にあった。現在の場所に主屋を立てた10代広吉は幼いころ、尾藤庄蔵家に預けられたと言われることから尾藤家とよく似た間取りは、幼少を過ごした影響ではないかとされる。その後、11代五郎助が縮緬業に取り組み、京都に店を出店するとともに昭和初期、加悦に株式会社を立ち上げ、下村家を再興した。 川嶋輝子家住宅(旧川島酒造) 角地に立ち、大規模な土蔵として目を引く。現在の建物は1927年(昭和2年)の丹後大震災後の1934年(昭和9年)頃に建てられたものとみられる。酒造は武田周平という人物がこの場所で明治時代に酒造を営んでいたことにより、戦後まで行われており、酒樽や精米の施設などがあったとみられる。かつては「カマド」があり、下屋の2階から火加減を見て酒造りの温度を見ていたという。 川嶋家住宅 渋谷英雄家住宅 1897年(明治30年)の建築であると伝わる。外観や規模、間取り、付属の座敷棟やさらには、街道側の座敷庭に至るまで、ちりめん街道の民家主屋の特徴を反映したものとなっている。 吉岡達夫家住宅 明治時代から乳屋であり、現在も牛乳販売業をしている。明治期後半は機業もしていた。加悦交差点の北東角に主屋がある。1868年(慶応4年)の建築と言われ、主屋は旧加悦庁舎正面に通ずる駅前道路拡張にともない、中庭を縮小し、北側に曳家されている。
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