近世から近代にかけて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 14:50 UTC 版)
このように12世紀はじめには知られるようになった発心門王子だが、五体王子のひとつとして知られるようになるのは14世紀頃まで降り、仁和寺蔵の『熊野縁起』(正中3年〈1326年〉)に初めて五体王子として記載された。その後、熊野詣の衰勢とともに退転したと見られ、元禄年間に著された地誌『紀南郷導記』(1688年?~1703年?)は、発心門は昔の門の跡で、他にも4つの門がそろっていたとする説を唱えている。だが、4つの門がそろっていたとする説を裏付ける記録は他に見当たらず、江戸時代に盛んになった修験道の知識が事後的に付会されたものであろう。 さらに時代がくだって、『紀伊続風土記』 (文化3年〈1806年〉~天保10年〈1839年〉)は、かつては重要な社であったが中世には既に退転しており、享保年間(1716年~1736年)に当時の紀州藩の命令で再建され、本宮大社の末社となったと伝えている。しかし、その頃には、湯の峰と三越峠を直結する赤木越にメインルートがすでに移っており、再び寂れていった。なお、『続風土記』には発心門の鳥居の位置が中世と近世では異なり、移動させられていることを伺わせる記述がある。 1907年(明治40年)に、本宮町萩の三里神社に合祀廃絶され、その際に社殿として移築されたとの記録があることから、社殿は残っていたようである。この合祀に際して王子神社遺址の石碑が建てられ、現存している。現在の社殿は1990年(平成2年)に再建されたものである。
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