近世から現代
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グリューンベルクも1524年から1527年までの間にルター派に改宗され、ヘッセン方伯フィリップ1世は修道院を廃止した。彼は1578年から1582年にアントニウス会修道院をエーベルト・バルデヴァインに未亡人の居館(現在の城館)に改築させた。この際、2本の美しいルネサンス様式の張り出し部が造られた。敷地内には大学が設けられた。アウグスチノ会女子修道院は市立病院となった。(2005年10月にこの建物内に民族学者テオドール・コッホ=グリューンベルク(ドイツ語版、英語版)の全コレクションを収めた市史博物館が開館した。)この頃、市はさらに2人の教師を雇い入れ、少女も初等教育を受けられるようになった。 1526年に建設された大学の建物はオーバーヘッセンで最も高い木組み建築であった。マールブルク大学はペストが流行した1542年にこの建物に疎開している。 グリューンベルクは、1567年の領邦分割によりヘッセン=マールブルク方伯(ドイツ語版、英語版)領となり、1604年にヘッセン=ダルムシュタット方伯領となった。 1593年には 432人の市民がこの街に住んでいたが、三十年戦争とペスト禍によってわずか 220人にまで減少した。市参事会は、空き家のまま放置された家屋 100軒以上を取り壊させた。 この街は復興に長い時間を要した。政治的にも経済的にも中心地は他に移転していたため、グリューンベルクはオーバーヘッセンの典型的な農民都市に発展した。18世紀初めに建設されたバロック様式の墓地教会はこれをはっきりと示している。1816年にこのゴシック教会は倒壊したのだが、市が新しい教会堂の建設を始めたのは1846年になってからであった。この時、借金を 20年以内に半減させる賢明な計画が採られた。 19世紀になるとグリューンベルクは再びかつての重要性を回復した。1832年から1874年までグリューンベルクは郡庁所在地となった。経済基盤はもはや交易路沿いの立地ではなく、地元の手工業、特に織物と製靴業にあった。1869年、フォーゲルベルク鉄道の開通によりグリューンベルクは鉄道網に接続し、19世紀末には織布工場が進出した。 この街の都市計画については、1896年に屋内配管を含む近代的な上水道が設けられ、1913年には電灯を点す電力網が敷設された。その後数十年間で学校やプールなど、その他の公共施設が建設された。その後都市構造は保たれていたが、2度の空爆によって1945年に数多くの建物が破壊され、150人の市民が死亡した。 戦後 800人以上の難民や追放された人々がこの街に移り住んだため、住居が可及的速やかに建設された。その後すぐに工業地域も整備された。木組み建築が遺るグリューンベルクの旧市街は1969年以後大規模な改修工事が行われた。現在この旧市街は、緑の山の上にある、まとまった佇まいの住宅・商業地域となっている。グリューンベルクは1980年に「ヘッセンの日」の開催地となった。1983年からは、州指定のルフトクアオルト(空気の清浄な療養地)になっている。ギムナジウム教師で年代記者のカール・グラーザーは、1845年にすでにこう記述している: 「我々の街の空気は澄みきっている。人々は、ここでは何年もの間疫病が起こっていないことを知っている。ここグリューンベルクの気質は、飾り気ないが、真心がある」 ヘッセン州の地域再編に伴い、それまで独立した 13の町村がグリューンベルクと合併し、現在その市区となっている。 1970年12月31日: ベルタースハイン、ゲーベルンロート、クライン=アイヒェン、ルムダ、クヴェックベルク、シュタンゲンロート、シュトックハウゼン、ヴァイクハルツハイン、ヴァイタースハイン 1971年2月1日: ハールバッハ、ラルデンバッハ 1971年12月31日: レーンハイム(これ以前はアルスフェルト郡に属していた) 1972年4月1日: ラインハルツハイン 2007年から、市は唯一の博物館「ムゼウム・イム・シュピタール」を有している。この博物館は、グリューンベルクの市の歴史を紹介しており、本市で最も有名な人物である民俗学者テオドール・コッホ=グリューンベルク(1872年 – 1924年)の生涯と業績を展示している。
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近世から現代
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1530年、クヴェンテル集落と交換でシュネルローデ、フォッケローデ=ディンケルベルクおよびヴァイデルバッハの集落がアムト・ヘッシシュ・リヒテナウからアムト・シュパンゲンベルクに移管された。三十年戦争では、アムト・シュパンゲンベルクに属するすべての村が甚大な被害を受けた。18世紀にはリンネル生産がシュパンゲンベルクで重要な役割を担うようになった。1789年から1790年にアムト・シュパンゲンベルクはヘッセン方伯領内のリンネル生産を牽引し、輸出を行うようになっていた。1821年のヘッセンの行政改革により、「郡」が設けられ、アムト・シュパンゲンベルクは廃止され、メルズンゲン郡に属すこととなった。19世紀半ばにはシュパンゲンベルクでサークルが設立された。1842年の男声合唱団「リーダーターフェル」や1863年の TSV 1863 シュパンゲンベルクなどである。 1874年、鉄道ライネフェルデ - トライザ線の建設により、シュパンゲンベルク経済は推進力を得た。シュパンゲンベルク駅は1879年に開業した。この頃シュパンゲンベルクには多くのユダヤ人が住んでおり。その多くは商業を営んでいた。この街の出身者でザルツマン & Comp. の創業者ハインリヒ・ザルツマンは、クノーとエルゼの伝説にちなんだリーベンバッハ記念碑を1902年に建立した。1910年から1911年に、オイレン塔の旧市立学校、現在のブルクジッツシューレの建設が始まった。1913年6月15日、皇帝ヴィルヘルム2世がこの街を訪れた。この頃から城館は林業学校として利用されるようになった。 1930年代には、ヒトラー政権を逃れるため、多くのユダヤ人がその土地を売却した。1945年の復活祭の日、アメリカ軍の焼夷弾攻撃により多くの家屋や城館が犠牲となった。これにより城館はほぼ完全に破壊され、1950年代にヘッセン州の援助によって再建された。 戦後、ドイツの奇跡的経済復興の時代に、シュパンゲンベルクには多くの企業が設立された。なかでもヴィルヘルム・クルマン・ゼーゲンファブリークは、この街最大の雇用主となった。ヴィンターノートのシュパンゲンベルク・ブルクジッツシューレの新校舎が1972年に開校し、学校の慢性的なスペース不足は解消された。 ヘッセン州の行政・地域改革により1970年から1974年までの間に、それまで独立した町村であった12の町がシュパンゲンベルクに合併した。同じ1974年には100年以上にわたって存続していたカノーネン鉄道(ベルリン - コブレンツ鉄道の一部区間)の旅客運行が廃止された。数年後には貨物運行も廃止された。この路線跡は、市内で路床がわずかながら見られるが、線路は撤去されている。旧駅舎は1994年から幼稚園「アルター・バーンホーフ」(旧駅)として利用されている。
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近世から現代
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「バール (モンテネグロ)」の記事における「近世から現代」の解説
1877年、モンテネグロ人の攻撃により町は破壊されそれが広がりを見せた。バールでの戦災からの回復は困難であった。1878年のベルリン会議によってモンテネグロはバール、ウルツィニの領有権を得て海上への道が確保された。1904年8月30日、イタリアの発明家グリエルモ・マルコーニによりバールとアドリア海を挟み反対側のバーリとの無線通信が成功し、1908年9月2日にスカダール湖畔のアンティヴァリ・ヴィルパザールまでモンテネグロ初の狭軌鉄道が敷かれた。第一次世界大戦に入ると1916年にはオーストリア=ハンガリー帝国の軍隊によりバールは占領されるが、戦後はユーゴスラビア領となる。1920年代になると、観光が盛んになり始める。第二次世界大戦時の1941年からはイタリア領となり占領された。同年7月にバール周辺ではパルチザンによる抵抗が開始された。戦後、解放されると1959年にバールには標準軌の鉄道が敷かれ当時ティトーグラードと呼ばれていた現在の首都ポドゴリツァとの間が結ばれた。しかし、ベオグラード=バール鉄道の全線開業は1976年まで待つことになる。1979年には大規模な震災によりバールは壊滅的な被害がもたらされ旧市街から新たに沿岸部に建設された新市街に町の主要な機能は移っている。
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近世から現代
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「テュアナのアポロニオス」の記事における「近世から現代」の解説
15世紀から16世紀、ルネサンス期を代表する印刷業者アルド・マヌーツィオが、ラテン語訳付き『テュアナのアポロニオス伝』を上記の『ヒエロクレス論駁』と合本して出版した。また、マルコス・ムスロス編纂の書簡集も出版した。さらに、他の印刷業者によりイタリア語訳やフランス語訳も出版された。これらと併行して、ラブレー、フィチーノ、ロイヒリン、ジャンフランチェスコ・ピコ、バロニウス、ボダン、トリテミウスがアポロニオスに言及し、ピエトロ・リベリやストラダヌスが絵画を描いた。 17世紀、理神論の祖ハーバート・オブ・チャーベリー(英語版)やチャールズ・ブラウント(英語版)がアポロニオスとイエスを比較した。ブラウントは『テュアナのアポロニオス伝』第2巻までの英語訳注を出版し、イエスの生涯の信憑性が、アポロニオスのそれと同程度に過ぎないと主張した。この英語訳注は英国国教会に糾弾された。17世紀にはその他、著述家ロバート・バートン(英語版)が『憂鬱の解剖(英語版)』で、アポロニオスのラミア退治に言及した。 18世紀、マルキ・ド・サドは『司祭と臨終の男との対話(英語版)』で、アポロニオスとイエスを比較し、イエスを冒涜した。同じころ、歴史家エドワード・ギボンは『ローマ帝国衰亡史』で、アポロニオスとイエスの生年をほぼ同時期とし、聖者・ペテン師・狂信者のいずれか分からないと述べた。このギボンの記述は、イエスを暗に冒涜するものとみなされ、論争を招いた。18世紀にはその他、フリードリヒ大王、ヴォルテール、ヴィーラントがアポロニオスに言及した。 19世紀中葉、近代魔術の開拓者エリファス・レヴィは、『高等魔術の教理と祭儀(英語版) 祭儀篇』で、儀式によりアポロニオスの霊を召喚したと報告した。また同書の付録として、儀式で使ったアポロニオスの著作『ヌクテメロン(wikidata)』のフランス語訳、と称する文章を載せた。 19世紀末から20世紀前半、神智学協会のヘレナ・P・ブラヴァツキーや、ルドルフ・シュタイナーが、アポロニオスに言及した。特にアリス・ベイリーやチャールズ・W・レッドビーターが、アポロニオスを「イエス大師」と結びつけた。また、G・R・S・ミード(英語版)がアポロニオスを主題的に研究した。 19世紀末、バハイ教の聖典の一つ『ケターベ・アクダス(英語版)』で、アポロニオス(バリーナース)がソクラテスやピタゴラスと並ぶ偉大な哲学者の一人として扱われた。 19世紀以降の文学では、ジョン・キーツが上記『憂鬱の解剖』の引くラミア退治に着想を得て、詩『レイミア(英語版)』を作った。エズラ・パウンドは、長編詩『ピサ詩篇(英語版)』でアポロニオスを聖者として登場させた。チャールズ・オルスン(英語版)は、『テュアナのアポロニオス伝』を翻案してダンス劇『テュアナのアポロニウス』を作った。その他、エドワード・ブルワー=リットンの歴史小説『ポンペイ最後の日』『ザノーニ(英語版)』、ギュスターヴ・フローベールの詩的小説『聖アントワーヌの誘惑』、カレル・ボレスラフ・イラークのオペラ『テュアナのアポロニオス』、コンスタンディノス・カヴァフィスの詩『ロードス島におけるティアナのアポロニオス』、チャールズ・G・フィニーのファンタジー小説『ラーオ博士のサーカス(英語版)』、およびその映画化『ラオ博士の7つの顔』(演: トニー・ランドール)、SFテレビドラマ『The Fantastic Journey』(演: メル・ファーラー)、エイヴラム・デイヴィッドスンのSF小説『Masters of the Maze』、スティーヴン・セイラー(英語版)の歴史小説『Empire』などに登場する。 19世紀以降の学界では、聖書学者のブルトマンやバウア、歴史学者のマイヤー、文芸批評家のルネ・ジラールら、多くの学者が『テュアナのアポロニオス伝』の性質やイエスとの関係について論じている。また、碑文やメダル(コントルニエイト(英語版))などの考古学資料も発見されている。 20世紀中葉、サンスクリット語文献において、アポロニオスが「アパルーニヤ」(梵: Apalūnya)の名で、ヴェーダーンタ学派に属する西方のヨーギンとして言及される文献が発見された。これにより、インド遍歴の史実説や『テュアナのアポロニオス伝』東伝説が強まり、中村元にも注目された。しかし1995年、この文献が19世紀末の偽作であることが証明された。
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近世から現代
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1797年のカンポ・フォルミオ条約によってオーストリア大公国の支配に移る。しかしながら、1805年にプレスブルクの和約によってフランス第一帝政に隷属するナポレオン1世のイタリア王国となるが、事実上はロシア小艦隊、ドミトリー・セニャーヴィンの占領下となる。ロシア撤退後、1806年までイタリア王国の下にあり1810年にフランス帝国イリュリア州となる。ナポレオン戦争が続く中、コトルはジョン・ハーパー提督率いるスループ船HMS Saracenによる湾の攻撃により攻略された。コトル封鎖は風がない状態で、住民は岸に沿ってロープを引っ張った。Saracenの乗組員は後に艦の18ポンド砲をコトル近くのサン・ジョヴァンニ砦に運び、ウィリアム・ホステ大佐の艦HMS Bacchanteを強化した。フランス側の守備隊は降伏する他に手段がなく、1814年1月5日に降伏した。ウィーン会議によりオーストリア帝国へコトルは返還されることになった。第一次世界大戦時、コトルは3港あるオーストリア=ハンガリー帝国海軍の主要な軍港のうちの一つとなり前弩級戦艦と軽巡洋艦で構成されるオーストリア第五艦隊の母港であった。コトル周辺では地元のスラヴ系のモンテネグロ人とオーストリア=ハンガリー帝国軍との間で激しい争いもあった。1918年、ユーゴスラビアの一部になるとそれまで、カッターロと呼ばれていたものが公式にコトルとなった。1941年から1943年にかけてはイタリアに併合され、もともとのヴェネツィア名であったコトル湾を意味するボッケ・ディ・カッターロ"Bocche di Cattaro"と呼ばれ、イタリア人のダルマチア総督とカッターロ州が設立され1,075km² の面積に128,000人が居住していた。第二次世界大戦後の1945年、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国内のモンテネグロ社会主義共和国となる。1979年4月15日、モンテネグロ沿岸部で大地震が発生し、100人以上の死傷者が出た。コトル旧市街はその半分以上が被災し、聖トリプン大聖堂(en:Katedrala Svetog Tripuna)は部分的に被災している。
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