近世〜近代
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戊辰戦争では、当時の新政府軍(西軍)によって会津藩の城、鶴ヶ城に砲撃を加える際に利用されたとされる。
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近世〜近代
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1786年(天明6年)に会津藩の医師を務めた田中宗養(喜右衛門)が誕生。父の亦四郎が漢方医だった環境もあり、20歳頃から京都の漢方医術・鍼術の一派宗家吉田意安家に入門して修行。医師免許を取り帰村した宗養は「意安法印様 田中宗養」という鑑札の下に開業。しかし村内にとどまらず、広く近郷にも知られ、典医として会津城に招かれる。しかし、ある時同僚に妬まれ毒を盛られたが、直ちにそれに気付き吐き出した為大事に至らなかった。しかし、以来健康を害し、勤めもままならなくなった為、やむなく帰村した。それを知った主君の松平肥後守は不憫に思い、帰村した宗養こと喜右衛門豊重に兼定作の合口一振(日本刀)を送り届けた。帰村後は、神職や手習い師匠をしたり山間の荒地や里地の信濃川沿いの新開発をするなどの活動もてがけたが、1855年(安政2年)8月24日に70歳で死去した。 1756年(宝暦6年)、前年の凶作により、各地で飢饉が起こり真人村においても例外なく飢饉に襲われた。そこで、同年2月29日、若栃の田中庄兵衛は、飢饉の惨状を防ぐため、父の13回忌、母の17回忌を迎えていたので、その供養という理由で黒米(現在の玄米)17俵をお救い米として真人村に差し出した。 1841年(天保12年)8月、ムジナの被害に悩まされた村民が若栃の助右衛門、庄兵衛、仙右衛門とともに願人となり代官所に退治依頼。小千谷陣屋の代官永井孫太郎が指揮をとり同年10月29日に退治を開始した。10日間と延べ446の人員を要し、70匹を退治し戦果を挙げた。
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