近世から20世紀初期までの中国における使用例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 19:32 UTC 版)
「支那」の記事における「近世から20世紀初期までの中国における使用例」の解説
19世紀末まで、中国大陸は清朝(満洲族)の統治下にあり、明治の日本以来は中国を清国と称し、その国民を清国人と呼んだ。清朝末期に共和主義運動が広まるにつれ、中国人共和主義者たちの間で、清国、清国人という呼称は「満清の臣下」を意味するという理解の人たちから、清朝を共和制にかわる、未来建てる共和国の呼称についての模索が開始された。また中国では、世界の中に中国を客観的に位置づける場合に「支那」の呼称が主に仏教文献で広く使われてきた。 清の末期(19世紀末 - 1911年)の中で、漢人共和主義革命家たちが、自分たちの樹立する共和国の国号や、自分たちの国家に対する王朝や政権の変遷を超えた通時的な呼称を模索した際に、自称の一つとして用いられた一時期がある。 王朝や政権の変遷を超えた、国号としても使用可能な固有名詞の呼称のひとつとして古来の「支那」という呼称を選び取り、満洲族による清朝支配体制からの脱却を目指す革命家などの手で一時期広く使用された。 中華民国建国の父とされる孫文は1902年(明治35年)に発行された宮崎滔天の『三十三年之夢』に寄せた言葉の中で「支那」の語を使用し、1910年(明治43年)に「支那暗殺團」を設立し、また中華民国成立後の1914年に、孫が首相の大隈重信に宛てた書簡の中では、支那29回、支那革命1回、支那国民2回、支那人1回、合計34回の「支那」表記を使用している。また孫文の協力者であった日本人の梅屋庄吉が辛亥革命成功後に「支那共和国公認期成同盟会」を結成している。この時の額は広州にある孫中山記念館で保存されている。1902年には、日本に亡命していた中国人共和主義者たちが、上野精養軒で「支那亡国二百四十二年記念会」を企画した。 日本の東京に留学していた宋教仁も機関誌の題目を『二十世紀之支那』としていた。 1911年の新国家の国号候補にもあがっている(最終的には「中華民国」が採用された)。
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