中華民国成立後
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梁啓超は1901年(明治34年)に『中国史叙論』において「吾人がもっとも慙愧にたえないのは、我国には国名がないことである」とし、唐や漢は王朝名、支那は外国人の使用する呼称、中国・中華は自尊自大の気味があるとしながら「やはり吾人の口頭の習慣に従って『中国史』と呼ぶことは撰びたい」と述べている。 近代主権国家への性向をもつ政治運動で結集核となったのは、清朝というよりも「中国」であって、この時期に次第に国名として定着しつつあった。辛亥革命を経て成立した中華民国の国号について、日本政府は正式な国名を使用せず伊集院彦吉駐清公使の進言による「支那」を採用した。 于紅によれば、これは近代日本の対中大陸政策を表徴するものであり、日中関係の不対等化を意味していたとする。日本政府は中国政府と締結する条約の文面など、正式呼称を用いることが不可欠な場合を除き、この共和国に対する呼称を「支那共和国」と称することを定めた。 以上の結果、日本における「支那」という呼称は、以下の2つの概念に対する呼称として使用されることになった。馬廷亮駐日代理公使からは「中華民国」を使うようにという抗議があったが、牧野伸顕外相はすでに官報に告示済であり、訂正しがたいと回答している。ただし、両国間で往復する公文書に際しては、日本文では「支那共和国」、漢文では「中華民国」が用いられることとされた。 国民党の北伐が完了し、国権回復運動が盛んになると、日本が用いる「支那共和国」という呼称に対する反発は再び強まった。1930年(昭和5年)5月27日、中華民国は外交部に対し、「支那」と表記された公文書を受け取らないように訓令を発した。中華民国中央政治会議による決議を受けて、中華民国外交部が、英語による国号表記を“Republic of China (ROC)”とする一方で、中文表記を「大中華民国」であるとし、日本政府に対し「支那の呼称を使わないよう」に申し入れてきた。 その理由として「支那という言葉の意味は大変不明確で、現在の中国とはなんら関係ない」というものであった。そのため、10月31日「支那国号ノ呼称ニ関スル件」という閣議決定で、「これまでは外交文書で「中華民国」と書く必要のあるものを除いて通常文書では「清国」のことを「支那」と記載してきたが、当初から中華民国側は支那という呼称を好ましくないとしていたし、特に最近は中華民国の官僚や民衆が不満を表明することが多くなっているので、その理由の如何はさておいて、中華民国政府からの正式な申し入れはないけれども、今後は「支那国」ではなく「中華民国」と書くことにする。」と決定した。 この決定は「中華」が、かつての中華思想に基づくものであると見て、日本の知識人などには強い反発を持つ者も少なくなく、幣原喜重郎外相の「軟弱外交の証拠」であるとして、批判の対象となった。
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