中華民国教育制度の整備
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中華民国成立後は、范源濂は梁啓超派として天津で国民協進会の設立に奔走する。1912年(民国元年)3月、同会の正式な設立と共にその常務幹事となった。5月、国民協進会が他の結社と合併して共和党が組織されると、范はその幹事となる。翌年5月に共和・民主・統一3党合併により進歩党が成立すると、これにも参加している。 范源濂は、北京政府初代教育総長蔡元培の下で教育部次長に就任している。蔡とともに新式教育のための改革推進、条規整備に邁進した。この2人により、「普通教育弁法」などの条規が制定されている。蔡はわずか3月で内閣総理唐紹儀とともに辞職に追い込まれたが、後任の陸徴祥内閣で范が後任の教育総長に就任した。范は改革をさらに推し進め、「学制令」、「小学校令」、「師範学校令」、「女子中学章程」、「大学令」、「専門学校令」など一連の条規を整備し、中華民国における近代教育の幕開けを導いた。 1913年(民国2年)2月、范源濂は病のため教育総長を辞任する。同年秋、上海に赴いて中華書局編輯長に就任した。ここでも范は、教育分野を重視し、様々な教科書の発行に従事している。後に袁世凱が皇帝即位をもくろむと、梁啓超・蔡鍔らとともに、反袁闘争である護国戦争(第三革命)を支持した。
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