中華民国大総統就任
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民国5年(1916年)6月に袁世凱が死去すると、徐世昌は袁世凱の故郷である河南省に赴き、数ヶ月間服喪している。その後も政権から距離を置いていたが、軍閥同士の抗争の調停などを行っている。軍閥の一人、直隷派の馮国璋の要請で民国7年(1918年)に第4代中華民国大総統に就任した。当時馮と対立していた安徽派の段祺瑞や奉天派の張作霖などの人事への賛同を得ている。 北洋軍閥では袁世凱に次ぐ地位であった徐世昌であるが、自身は文官出身であるため軍事知識を有しておらず、徐世昌には軍閥間の調整を期待された。徐世昌は直隷派と安徽派の調和を試み、さらに北京政府と孫文などの革命派を含む南方の諸勢力との周旋に努めたが、いずれも調停は順調ではなかった。また第一次世界大戦に際しては日本がドイツより獲得した膠州湾の利権を回復を試みたがヴェルサイユ条約で否定され、これに反対する中国民衆による五・四運動につながっている。 さらに前政権の国務総理であった段祺瑞が日本などからの借款を浪費したため、政権内外から不評を買い、統治能力まで疑われた。結局、民国11年(1922年)に直隷派によって大総統を辞任させられた。
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