中華民国勤務
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「アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン」の記事における「中華民国勤務」の解説
その頃在中華民国ドイツ軍事顧問団で交代の動きがあり、ゼークトが中国へ渡る情勢となったが、外務省はこれを差し止めようとしていた。このためゼークトは1933年10月にファルケンハウゼンを中華民国の指導者蔣介石の個人顧問として推薦した。招聘を受けたファルケンハウゼンは「東アジアにおける日本のヘゲモニーは当分揺るがない」と考えており、親中国的なゼークトとは意見を異にしていた。この後ファルケンハウゼンは自らの進路を各所に相談した。ヒトラーやエルンスト・レームはドイツ国内に残留することを勧め、突撃隊指導者などのポストを提示した。一方で国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルクや軍務局長ヴァルター・フォン・ライヒェナウは中国行きを暗に勧めた。結果ファルケンハウゼンは中国行きを決断し、1934年4月にゼークトとともに中国に渡った。 1935年にゼークトが帰国するとドイツ軍事顧問団団長となり、内戦で混乱する中華民国軍の育成や軍需生産の基礎作りに従事した。1937年の第二次上海事変の作戦計画を作成し、日本軍を相手に第一次世界大戦の塹壕戦を教訓とした「ゼークト・ライン」と呼ばれる防御陣地で対抗しようとしたが突破された。 ナチス政権下のドイツの極東政策は1936年には日独防共協定を結ぶ一方で中華民国への援助も継続されるなど、日本と中国との間で大きく揺れていた。ナチ党のヨアヒム・フォン・リッベントロップ等は日本との連携を重視していたが、外務省では中国派が優勢だった。しかし1938年にリッベントロップが外相に就任すると日本重視の姿勢が決定的となり、軍事顧問団は撤収することになった。帰国したファルケンハウゼンはナチスに否定的なフランツ・ハルダーらに近づいた。
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