中華民国勤務とは? わかりやすく解説

中華民国勤務

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 15:23 UTC 版)

アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン」の記事における「中華民国勤務」の解説

その頃在中民国ドイツ軍顧問団交代動きがあり、ゼークト中国へ渡る情勢となったが、外務省はこれを差し止めようとしていた。このためゼークト1933年10月ファルケンハウゼン中華民国指導者蔣介石個人顧問として推薦した招聘受けたファルケンハウゼンは「東アジアにおける日本ヘゲモニーは当分揺るがない」と考えており、親中国的なゼークトとは意見異にしていた。この後ファルケンハウゼンは自らの進路各所相談したヒトラーエルンスト・レームドイツ国内残留することを勧め突撃隊指導者などのポスト提示した一方で国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルク軍務局長ヴァルター・フォン・ライヒェナウ中国行き暗に勧めた結果ファルケンハウゼン中国行き決断し1934年4月ゼークトとともに中国渡った1935年ゼークト帰国するドイツ軍顧問団団長となり、内戦混乱する中華民国軍育成軍需生産基礎作り従事した1937年第二次上海事変作戦計画作成し日本軍相手第一次世界大戦塹壕戦教訓とした「ゼークト・ライン」と呼ばれる防御陣地対抗しようとしたが突破された。 ナチス政権下ドイツ極東政策1936年には日独防共協定を結ぶ一方で中華民国への援助継続されるなど、日本中国との間で大きく揺れていた。ナチ党ヨアヒム・フォン・リッベントロップ等は日本との連携重視していたが、外務省では中国派が優勢だった。しかし1938年リッベントロップ外相就任する日本重視姿勢決定的となり、軍事顧問団撤収することになった帰国したファルケンハウゼンナチス否定的なフランツ・ハルダーらに近づいた。

※この「中華民国勤務」の解説は、「アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン」の解説の一部です。
「中華民国勤務」を含む「アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン」の記事については、「アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン」の概要を参照ください。

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