中華民国副大総統とは? わかりやすく解説

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中華民国副大総統

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/04 02:26 UTC 版)

黎元洪」の記事における「中華民国副大総統」の解説

孫文大総統就任によって中華民国成立したが、黎元洪としては武昌以来革命軍指揮して来たのは自分のはずなのにと面白いはずもなく、大総統への道を模索して活動続ける。この後1912年3月1日に、孫文清朝宣統帝退位引き換え臨時大総統の職を袁世凱に譲るが、袁世凱は「副大総統職に黎元洪留任」という条件黎元洪賛成引き出す。こうして清朝滅亡し南北中国再び統一される。 下野したものの袁世凱強権的手法反対した孫文らは、1913年9月に「第二革命」を起こす袁世凱軍事力前にあっけなく撃退され孫文らは日本亡命余儀なくされる。こうして国内革命派一掃した事で、10月袁世凱正式に中華民国大総統就任した第二革命の際には袁世凱支持した黎元洪だったが、袁世凱からは「潜在的脅威」と見なされ、10月大総統就任後袁世凱お膝元である北京押し込められ、自由を奪われてしまう。「副大総統」の役職にはそのまま残ったが、何の実権もない名誉職のようなものにされてしまった。袁世凱してみれば黎元洪は袁の直属部下である北洋軍閥出身ではないし、南京政府時代革命家との交流もあったため、今一つ信用しきれなかったのだ。だが袁世凱黎元洪切り捨てる事はせずに、自分息子黎元洪の娘と結婚させたりと、関係強化努めた1915年12月袁世凱帝政復活宣言する国内外から一斉に反発声が上がる1916年には帝政反対する一派から黎元洪大総統就任唆す声がかかった袁世凱反旗を翻す事は生命危険につながると思った黎元洪はこれを断るが、同時に皇帝となった袁世凱与えようとした武義親王称号固辞した結果的にはこのバランス感覚彼の政治生命延命させる事になるのだが、この後1916年6月6日袁世凱亡くなるまで自宅隠棲する日々を送る。

※この「中華民国副大総統」の解説は、「黎元洪」の解説の一部です。
「中華民国副大総統」を含む「黎元洪」の記事については、「黎元洪」の概要を参照ください。

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