中華民国副大総統
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孫文の大総統就任によって中華民国が成立したが、黎元洪としては武昌以来革命軍を指揮して来たのは自分のはずなのにと面白いはずもなく、大総統への道を模索して活動を続ける。この後の1912年3月1日に、孫文は清朝宣統帝の退位と引き換えに臨時大総統の職を袁世凱に譲るが、袁世凱は「副大総統職に黎元洪を留任」という条件で黎元洪の賛成を引き出す。こうして清朝は滅亡し、南北の中国は再び統一される。 下野したものの袁世凱の強権的手法に反対した孫文らは、1913年9月に「第二革命」を起こすが袁世凱の軍事力の前にあっけなく撃退され、孫文らは日本に亡命を余儀なくされる。こうして国内の革命派を一掃した事で、10月に袁世凱は正式に中華民国大総統に就任した。 第二革命の際には袁世凱を支持した黎元洪だったが、袁世凱からは「潜在的脅威」と見なされ、10月の大総統就任後は袁世凱のお膝元である北京に押し込められ、自由を奪われてしまう。「副大総統」の役職にはそのまま残ったが、何の実権もない名誉職のようなものにされてしまった。袁世凱にしてみれば黎元洪は袁の直属の部下である北洋軍閥の出身ではないし、南京政府時代の革命家との交流もあったため、今一つ信用しきれなかったのだ。だが袁世凱は黎元洪を切り捨てる事はせずに、自分の息子を黎元洪の娘と結婚させたりと、関係強化に努めた。 1915年12月に袁世凱が帝政の復活を宣言すると国内外から一斉に反発の声が上がる。1916年には帝政に反対する一派から黎元洪に大総統就任を唆す声がかかった。袁世凱に反旗を翻す事は生命の危険につながると思った黎元洪はこれを断るが、同時に皇帝となった袁世凱が与えようとした武義親王の称号も固辞した。結果的にはこのバランス感覚が彼の政治生命を延命させる事になるのだが、この後1916年6月6日に袁世凱が亡くなるまで自宅に隠棲する日々を送る。
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