再び統一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/10 08:16 UTC 版)
4月、段末波は劉琨(段匹磾と同盟を結んでいた)を味方に引き入れようと思い、劉羣(劉琨の嫡男。段匹磾が敗れた際に捕らわれとなっていた)に劉琨へ内応を要請する書状を書かせ、密偵を放って送り届けさせた。その密偵は途中で捕まってしまったが、これにより段匹磾は劉琨の事を疑うようになった。劉琨の庶長子劉遵は段匹磾に誅殺されるのを恐れて反乱を起こしたが、段匹磾はこれを滅ぼした。さらに、代郡太守辟閭嵩・雁門郡太守王拠・後将軍韓拠は段匹磾暗殺を目論むも、事前に露見して一族もとろも誅殺された。5月、段匹磾は部下が劉琨を主君に推戴して反乱を起こすことを恐れ、劉琨を誅殺した。この事件が原因で漢人も胡人も段匹磾から離れていった。 5月、段匹磾は段末波より攻撃を受け、邵続の下に逃走しようとしたが、石勒配下の石越より攻撃を受けて敗れたので、再び薊城に戻った。 319年4月、段匹磾の兵は食糧不足のために四散したので、薊を離れて上谷に拠点を移した。だが、代王拓跋鬱律より攻撃を受け、段匹磾は邵続の統治する楽陵郡に身を寄せた。 12月、遼東を治める東晋の東夷校尉崔毖の呼びかけにより、段末波は慕容部討伐の兵を挙げ、宇文部・高句麗もまた呼びかけに応じてそれぞれ軍を動かした。三国連合軍は慕容部の本拠地棘城に攻撃を仕掛けたが、慕容廆の離間工作に引っ掛かり、兵を退却させた。 320年1月、段末波は段匹磾を攻撃して撃破したが、段匹磾は邵続の支援を受けて反撃し、段末波の軍はほぼ全滅した。段匹磾は勝ちに乗じて段文鴦と共に後趙領の薊城を攻撃したが、石勒はその隙をついて石虎に邵続の守る厭次を包囲させた。2月、邵続は出撃するも、石虎に敗れて捕らえられた。段匹磾は邵続が捕らわれた事を知ると、厭次に向かった。途上で石虎が道を塞いだが、段文鴦の奮戦により無事入城を果たし、段匹磾は邵続の一族である邵緝・邵存・邵竺・邵洎らと共に城を固守した。6月、後趙の将軍孔萇は段文鴦の陣営を攻めたが、段文鴦はこれに大勝した。 321年3月、石虎は厭次に進軍して段匹磾と戦い、配下の将軍孔萇は領内の諸城を陥落させた。段文鴦は数10騎を率いて出陣し、多くの兵を斬ったが、後趙の兵が四方から包囲を縮めると、段文鴦はついに力尽きて捕えられた。これにより城内の戦意が消失し、邵洎は城を挙げて石虎に降った。段匹磾は襄国へと護送され、やがて誅殺された。これにより段部は再び統一された。
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