劉琨とは? わかりやすく解説

劉琨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/13 06:47 UTC 版)

劉 琨(りゅう こん、泰始7年(271年) - 大興元年5月8日[1]318年6月22日))は、中国西晋時代から五胡十六国時代にかけての武将政治家越石中山郡魏昌県(現在の河北省定州市南東部)の出身。の中山靖王劉勝の末裔であると言われる。八王の乱に際しては司馬顒討伐に大きく貢献し、永嘉の乱が起こると拓跋部と結んで漢(後の前趙)の襲来を阻んだ。文学者としても著名であった。


  1. ^ 『晋書』巻6, 元帝紀 太興元年五月癸丑条による。
  2. ^ 「将軍は河北で立身し、兗州・豫州を席巻すると、長江・淮河・漢水・沔水の間を縦横無尽に駆け巡った。古来の名将と言えども、比較できる者はいないであろう。にもかかわらず、城を落としても民衆を得られず、地を攻略しても占有出来ず、軍をまとめてもすぐに散亡してしまっている。将軍にはこれが何故だかお分かりか。存亡を決するのは、正しい主君を得るかどうかにあり、勝敗を決するのは、どの勢力に付くかによる。主を得れば則ち義兵となり、逆に付けば則ち賊衆となる。義兵は敗れたとしても、功業は必ずや成し遂げるだろう。賊衆は勝ちを得たとしても、最後には必ずや殲滅される。その昔、赤眉軍や黄巾党は天下を横行したが、わずかな間に敗れ去った。その理由は、正に大義名分無き挙兵であったためであり、故に禍乱となったのである。将軍が天挺の質(天より選ばれた才質)をもって領内にその威を振るい、徳が有る者を見定めて推し崇め、時望に従ってこれに帰順すれば、その勲功・大義たるや堂々たるものとなり、長きに渡って栄光を手に出来よう。劉聡に背いて禍を除き、正しい主君に従えば福が至るであろう。もし将軍がこれまでの過ちを受け入れ、方針を改めるならば、天下を平定するのに、逆賊を掃討するのに足りない事があろうか。今、侍中・持節・車騎大将軍・領護匈奴中郎将・襄城郡公を将軍に授けよう。将軍は内外の職務を統率し、華戎(漢人と胡人)の封号を兼ね備え、大郡を治めてその地位を明らかにするのだ。これを持って将軍の特殊な才能を顕彰する。これらを受ける事は、あらゆる民の望みに従う事である。古えより、確かに戎人(胡人)から帝王に登った者は無いが、名臣として功業を建てた者は存在している。今、天下は大乱しており、雄才大略を持った人物が待ち望まれている。将軍は攻城野戦においては神機妙算であり、兵書を見ていないにもかかわらず孫武・呉起に匹敵している。生まれながらにして知る者は最も優れており、学んで知る者はその次である。精鋭騎兵5千と将軍の才があれば、打ち破れないものなど何もない。全ての誠心と事実はこの書にある」
  3. ^ 『晋書』では人質を送ったのは前年の出来事とされている。
  4. ^ 「握中有懸璧,本是荊山球。惟彼太公望,昔是渭濱叟。鄧生何感激,千里來相求。白登幸曲逆,鴻門賴留侯。重耳憑五賢,小白相射鉤。能隆二伯主,安問黨與仇!中夜撫枕歎,想與數子遊。吾衰久矣夫,何其不夢周?誰云聖達節,知命故無憂。宣尼悲獲麟,西狩泣孔丘。功業未及建,夕陽忽西流。時哉不我與,去矣如雲浮。朱實隕勁風,繁英落素秋。狹路傾華蓋,駭駟摧雙輈。何意百煉剛,化為繞指柔。」


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