拓跋猗盧と同盟とは? わかりやすく解説

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拓跋猗盧と同盟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/23 02:07 UTC 版)

劉琨」の記事における「拓跋猗盧と同盟」の解説

劉淵挙兵し当初当時并州刺史司馬騰拓跋部救援要請し拓跋部もこれに応じて劉淵を度々破って司馬騰救った。これにより、晋朝拓跋部同盟関係となった310年10月白部大人反乱起こして西河進軍し、さらに鉄弗部劉虎雁門挙兵し劉琨支配下にあった新興雁門の二郡を攻撃した劉琨拓跋猗盧へ礼を尽くして救援求めると、拓跋猗盧は甥の拓跋鬱律に将騎2万与えて救援に向かわせた。拓跋鬱律白部大破すると、さらに劉虎攻めてその陣営落とし朔方敗走させた。これにより拓跋猗盧劉琨結びつきはさらに強くなり、両者義兄弟契り結んだその後劉琨拓跋猗盧を大単于・代公に封じるよう上表した。だが、代郡幽州属しており、幽州を統治していた王浚代郡開け渡すのを拒絶した拓跋猗盧王浚から攻撃受けたが、これを撃退した。これ以来王浚劉琨敵対するようになった劉琨はまた拓跋猗盧使者送り洛陽救援のために援軍要請すると、拓跋猗盧は歩騎2万派遣してこれを助けた拓跋猗盧1万余り部落率いて雁門移り、陘北(雁門関北側一帯)を封地とするよう求めると、劉琨拓跋猗盧兵力頼みとしていたので、楼煩馬邑陰館繁畤・崞の民を陘南へ移住させ、この5県を拓跋猗盧与えた劉琨漢王朝打倒の為、太傅司馬越使者派遣し拓跋猗盧協力して劉聡石勒を討つよう持ちかけた。だが、司馬越青州刺史苟晞豫州刺史馮崇と対立しており、彼らに背後突かれることを恐れて断った劉琨征討諦め拓跋猗盧謝意述べて本国へ帰らせた。 同年劉琨平北将軍任じられた。 311年、揚威将軍魏浚洛北石梁塢に駐軍すると、劉琨魏浚河南尹任じた前趙将軍石勒は河北席巻し、強大な勢力有していた。10月劉琨石勒の母王氏従子石虎身柄確保すると、張儒に命じてこの2人石勒のいる陂まで送り届けさせた。また書も合わせて送り晋朝帰順し劉聡を討つよう要請した石勒はこれを拒否したが、母と石虎送ってくれたことに対して感謝の意示し使者の張儒を厚くもてなして名馬珍宝贈って見送った。そしてこれ以後劉琨との関係断ち切った12月劉琨拓跋部との結びつき強化する為、大人拓跋猗盧使者送り、子の劉遵人質として送った拓跋猗盧はその意を喜び劉琨へ厚い褒美返した劉琨宗族高陽内史劉希命じ中山で兵を集めさせた。これにより、幽州代郡上谷郡広寧郡の民3万人帰順した幽州刺史王浚はこれに激怒し燕国相胡矩に諸軍統率させ、遼西段疾陸眷と共に劉希攻撃させた。劉希敗死し、三郡の民は連れ戻された。この敗北により、劉琨声望損なったという。 拓跋猗盧劉琨援護するために、子の拓跋六脩新興駐軍させた。劉琨牙門将邢延が碧石を劉琨献上すると、劉琨はそれを拓跋六脩贈った拓跋六脩は邢延へ更に多くの碧石を求めたが、邢延が断ったので邢延の妻子を捕えた。邢延は激怒して拓跋六脩攻撃して追い払いうと、さらに新興反乱起こし、漢の劉聡招き寄せた。劉琨拓跋猗盧と共にこれを討ち劉聡敗走させた。 312年3月、靳沖・卜珝らが晋陽攻めると、拓跋猗盧と共にこれを撃退した。漢の安北将軍趙固平北将軍王桑河北郡県を荒らすと、劉琨趙固らを防ぐ為にの子劉演魏郡太守任じて鄴を守らせた。王桑劉演襲撃恐れ長史臨深を人質として劉琨送り帰順願い出た。これを受け、劉琨趙固雍州刺史に、王桑豫州刺史任じた8月劉琨は州郡に檄文送り10月平陽合流して漢を攻略する約定交わした拓跋猗盧もこれに力を貸す事に同意した劉聡は子の劉易劉粲および族弟劉曜晋陽攻略のために派遣し令狐泥に先導させた。劉琨は東に向かって常山中山一帯で兵をかき集めその間将軍の郝詵・張喬防戦命じたまた、拓跋猗盧にも救援要請した。郝詵と張喬いずれも返り討ち遭って殺され太原郡太守高喬と并州別駕郝聿は晋陽ごと劉粲降伏した劉琨晋陽戻ったが、既に陥落していたので、数十騎を率いて常山撤退した劉粲劉曜晋陽に入ると、尚書盧志侍中許遐・太子右衛率崔瑋を捕えて平陽送ったまた、令狐泥は劉琨父母殺害した10月劉琨拓跋猗盧合流して事の次第告げると、拓跋猗盧は漢軍の仕打ち大い憤った長子拓跋六脩拓跋猗㐌の子拓跋普根および衛雄・范班・箕澹らを派遣し拓跋猗盧20統べ後継となった劉琨残兵数千集めて軍の先鋒となった劉粲恐れて輜重焼き攻囲突破して遁走した。拓跋六脩劉曜と汾東で戦い、これを大い破った劉曜劉粲らは晋陽戻ったが、夜の間に蒙山越え平陽撤退した11月拓跋猗盧追撃をかけ、劉儒・劉豊・簡令・張平・邢延を斬った。屍は数百里にも渡り10人のうち5・6人が戦死した劉琨拓跋猗盧陣営出向いて拝謝すると、拓跋猗盧は礼をもってこれをもてなした劉琨強く進軍求めたが、拓跋猗盧は「我の救援遅れたために、君の父母殺されてしまい、心から申し訳なく思う。ただ、君は并州回復することができた。しかも、我は遠方から来て兵馬疲弊しており、みな戦役終結待っている。それに、賊徒簡単に滅ぼせるものでもない。一旦兵を退き時期待ってもよいのではないかと言った劉琨父母の仇を討ちたかったが、力が弱かったので敢えてそれ以上は何も言えず、拓跋猗盧従った拓跋猗盧劉琨に馬・牛・羊各千頭余りと車百乗を譲ると、将軍箕澹・段繁等に晋陽守備命じて帰還した劉琨戦死した者を思って号泣し怪我人の手当て当たったその後陽邑に入ると、流亡した民をかき集めたまた、劉粲参軍盧諶帰順すると、これを迎え入れた以前劉琨陳留郡太守焦求を兗州刺史任じていたが、司空荀藩述を兗州刺史任じたので、述と焦求が対立するようになった劉琨争い避けるため、焦求を呼び戻した313年4月、鄴城が石虎により陥落すると、劉琨魏郡太守劉演改め兗州刺史任じ廩丘を守らせた。劉琨任じた河南尹魏浚が、漢の劉曜石梁塢で包囲された。劉演郭黙援軍派遣したが、黄河の北で大敗喫した魏浚は夜の間に逃走したが、劉曜軍に追撃され殺された。 6月拓跋猗盧劉琨と陘北で会合し平陽攻略の策を練った7月劉琨谷に進むと、拓跋猗盧拓跋普根派遣して北屈駐軍させた。劉琨監軍の韓拠に命じ西河から南下して平陽西の西平城に向かわせた。漢帝劉聡大将軍劉粲劉琨を、驃騎将軍劉易拓跋普根を防がせ、蕩晋将軍陽に西平城を救援させた。劉琨らは漢軍が動いたと知ると退却した314年1月劉琨大将軍任じられ都督并州諸軍事・散騎常侍加えられた。さらに、仮節を与えられた。劉琨上疏して感謝の意述べた2月石勒劉琨人質送り、書を奉ってこれまでの事を謝罪し王浚討伐をもって罪を贖いたいと伝えた劉琨王浚対立していたのでこれに同意し、さらに州郡に檄文送り我が猗盧と共に石勒討伐決めたところ、進退窮した石勒は幽都(王浚討伐によって贖罪することを願い出た。よって我々は拓跋六脩南下させ、平陽(漢の首都)を攻撃し逆臣劉聡)を除くことにする」と伝えた劉琨拓跋猗盧に漢攻撃依頼し、彼らは期日約束し平陽合流することを決めた。ちょうどこの時期石勒王浚捕縛し、その勢力併合した拓跋猗盧属する諸族1万余りは、このことを聞くと、石勒呼応して反乱起こした。事が露見すると、拓跋猗盧すぐさま討伐に当たり、全員皆殺しにした。しかし、漢攻略中止せざるを得なくなった華北には六つの州に八人刺史がいたが、石勒により七人滅ぼされ残ったのは并州刺史劉琨のみであった劉琨朝廷上訴し、今が危急の時である事を訴えた6月長安劉曜・趙染らに攻撃されると、劉琨参軍張肇に鮮卑五百余り派遣して救援命じた。張肇が到来すると、漢軍は戦わずに兵を退いた315年2月司空都督并冀幽三州諸軍事に任じたが、司空については固辞した8月、漢の大司馬劉曜上党侵攻すると、劉琨襄垣迎え撃つ敗れた

※この「拓跋猗盧と同盟」の解説は、「劉琨」の解説の一部です。
「拓跋猗盧と同盟」を含む「劉琨」の記事については、「劉琨」の概要を参照ください。

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