拓跋猗盧の時代とは? わかりやすく解説

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拓跋猗盧の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/28 16:02 UTC 版)

代 (五胡十六国)」の記事における「拓跋猗盧の時代」の解説

310年10月并州刺史劉琨拓跋猗盧使者送り、子の劉遵人質とさせた。拓跋猗盧はその意を喜び厚く褒美贈った白部大人は叛いて西河入り、これに応じて匈奴鉄弗部劉虎雁門挙兵劉琨のいる新興雁門の2郡を攻撃した劉琨拓跋猗盧のもとへ使者派遣し、腰を低く礼を尽くして救援求めた拓跋猗盧は甥の拓跋鬱律に将騎2与え劉琨助けさせた。拓跋鬱律白部大破し、さらに劉虎攻め、その陣営落とした劉虎西へ奔り、朔方逃れた。これにより、拓跋猗盧劉琨義兄弟契り結んだ劉琨上表し、拓跋猗盧は大単于・代公に封じられた。しかし、代郡幽州属しており、幽州を統治していた王浚はこれを拒絶した拓跋猗盧王浚から攻撃受けたが、これを撃退した。これ以来王浚劉琨敵対するようになった劉琨はまた使者送り洛陽を救うために援軍求めると、拓跋猗盧は歩騎2遣わしてこれを助けた代郡拓跋猗盧本拠地盛楽から離れていたため、彼は1万余り部落率いて雲中から雁門移り、陘北を封地とするよう求めた劉琨はこれを止めることができず、また拓跋猗盧兵力頼みとしていたこともあり、楼煩馬邑陰館繁畤・崞の民を陘南へ移住させ、この5県を拓跋猗盧与えた以来拓跋猗盧勢力はさらに増大した劉琨は、太傅司馬越使者派遣し、共に出兵して劉聡石勒討とう持ちかけた。だが、司馬越青州刺史苟晞豫州刺史馮崇に背後突かれることを恐れ断った劉琨征討諦め拓跋猗盧謝罪し、その兵を本国へ帰らせた。 311年劉琨牙門将の邢延は新興反乱起こし劉聡招き寄せた。拓跋猗盧は軍を遣わしてこれを討ち劉聡を退走させた。 312年3月、靳沖・卜珝らが晋陽攻めると、拓跋猗盧救援軍派遣し、これを撃退した8月劉琨使者送り劉聡石勒討伐するため援軍要請した拓跋猗盧劉琨忠義をもってこれを認めたその間に、劉聡は子の劉易劉粲および族弟劉曜晋陽派遣し劉琨父母殺しその城を占拠した劉琨はこのことを報告すると、拓跋猗盧大い怒った10月長子拓跋六脩拓跋猗㐌の子拓跋普根及び衛雄・范班・箕澹らを前鋒として遣わし拓跋猗盧20統べ後継となった劉粲恐れて輜重焼き攻囲突破して遁走した。拓跋六脩は、劉曜と汾東で戦い、これを大い破った劉曜劉粲らは晋陽戻ったが、夜の間に蒙山越え平陽撤退した11月拓跋猗盧追撃掛け、その将の劉儒、劉豊・簡令・張平・邢延を斬り、屍は数百里にもわたった拓跋猗盧寿陽山で大規模な狩猟行った劉琨拓跋猗盧陣営拝謝来て拓跋猗盧は礼をもってこれをもてなしたこの後劉粲らは再び攻勢掛け遂に晋陽攻略した拓跋猗盧は自ら兵を率いて劉粲の軍を破ると、劉琨は再び晋陽入城した拓跋猗盧劉琨に馬・牛・羊各千頭余りと車百乗を譲ると、将の箕澹・段繁等に晋陽守備命じて帰還した313年5月王浚拓跋猗盧大金送り慕容廆と共に遼西公の段疾陸眷討伐求めた拓跋猗盧はこれを容れ、拓跋六脩派遣させたが、拓跋六脩段疾陸眷敗れて撤退した6月拓跋猗盧劉琨と陘北で会合し平陽攻略の策を練った7月劉琨谷に進むと、拓跋猗盧拓跋普根派遣して北屈駐軍させた。劉琨監軍の韓拠に命じ西河から南下して平陽西の西平城に向かった。漢帝劉聡大将軍劉粲劉琨を、驃騎将軍劉易拓跋普根を防がせ、蕩晋将軍陽に西平城を救援させた。拓跋猗盧らは漢軍が動いたと知ると退却した313年冬、拓跋猗盧盛楽城を北都とし、平城南都とした。平城新たに立て直し長子拓跋六脩鎮守させ、南部統領させた。 314年劉琨拓跋猗盧に漢攻撃依頼し、彼らは期日約束し平陽合流することを決めた。ちょうどこの時期石勒王浚捕縛し、その勢力併合した拓跋猗盧属する諸族1万余りは、このことを聞くと、石勒呼応して反乱起こした。事が露見すると、拓跋猗盧すぐさま討伐に当たり、全員皆殺しにした。しかし、漢攻略中止せざるを得なくなった315年2月愍帝拓跋猗盧を進爵して代王封じ代郡常山郡に官属を置くことが許された。拓跋猗盧百官を置き、刑法定めるなど国家としての体制整えた。これが代国始まりとされる拓跋猗盧は、末子拓跋比延寵愛しており、世継ぎにしようと考えた。そのため、長男拓跋六脩はこれをはなはだ妬み拓跋猗盧招集命令応じなくなった拓跋猗盧大い怒り兵を挙げ討伐当たった。だが、拓跋六脩返り討ち遭い、兵は離散してしまった。拓跋猗盧粗末な姿に身をやつして逃走図ったが、1人賤女彼の顔を知っており、遂に拓跋六脩に見つかり、殺されてしまった。 そのころ拓跋普根国境付近守っていたが、このことを聞くすぐさま駆けつけ拓跋六脩破り殺した。 こうして国内平定すると、王位継承した。 だが、この一件により国中大い乱れ拓跋部の民と晋や烏桓から帰順した人が互いに殺し合った拓跋猗盧腹心として長年仕え衆望集めていた左将軍の衛雄と信義将軍の箕澹は、このような事態陥ったので、劉琨帰順しようと謀った。そして、人質として派遣されていた劉琨の子劉遵と共に、晋人や烏桓人3万世帯と牛馬10万頭を率いて劉琨帰順した劉琨大い喜び、自ら平城出向いて彼等迎え入れた。これによって、劉琨勢力が再び強大になった4月拓跋普根亡くなった在位期間はわずか1月であった。その息子生まれたばかりだったが、拓跋普根の母の惟氏により代王立てられた。しかし、この幼主同年12月夭折した

※この「拓跋猗盧の時代」の解説は、「代 (五胡十六国)」の解説の一部です。
「拓跋猗盧の時代」を含む「代 (五胡十六国)」の記事については、「代 (五胡十六国)」の概要を参照ください。

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