拓跋什翼犍の時代
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「代 (五胡十六国)」の記事における「拓跋什翼犍の時代」の解説
拓跋翳槐は死ぬ間際、弟の拓跋什翼犍を後継に立て、国家を安定させるよう諸大人へ遺言した。梁蓋を初め諸大人は、拓跋什翼犍が遠く離れた地にいるため、彼を呼び寄せる間に変事が起こることを恐れた。そのためこの遺命に難色を示し、弟の拓跋孤を後継に立てようとした。しかし拓跋孤はこれを拒絶し、自ら鄴へ赴いて拓跋什翼犍を迎えた。そして、後趙の石虎と接見し、自ら兄に代わって人質となることを申し出た。石虎は拓跋孤の気概に感心し、2人とも返還させてやった。 同年11月、国に帰った拓跋什翼犍は、繁畤城以北の地で代王に即位した。初めて独自の元号を用い、建国と称した。 建国2年(339年)、百官を設け国家としての体制を整えた。代人の燕鳳を長史に、許謙を郎中令にそれぞれ任じた。反逆・殺人・強姦・窃盗などの法が明文化され、律令は明確となった。彼の政治は清廉で簡潔であると称された。連座や縁座を緩めたので、百姓は安心して暮らすことができた。代国では、他国から帰順してきた者を総称して「烏桓」と呼んでいた。拓跋什翼犍は烏桓を二部に分け、弟の拓跋孤に北部を、庶長子の拓跋寔君に南部をそれぞれ監督させた。東は濊貊から西は破落那まで、南は陰山から北は沙漠へ至るまでを服属させ、帰順する民は数十万人を数えた。 拓跋什翼犍は、前燕とも修好を深め、婚姻関係となることを望んだ。燕王の慕容皝は妹を嫁がせ、拓跋什翼犍は彼女を王后に立てた。 建国3年(340年)春、雲中郡の盛楽宮に再び遷都した。 建国4年(341年)9月、かつて盛楽城があった場所の南8里に新たに城を築いた。同月、王后の慕容氏が卒去した。10月、匈奴鉄弗部の劉虎は西部国境に侵攻してきた。拓跋什翼犍は軍を派遣して迎え撃ち、これを大破した。間もなく劉虎が没すると、子の劉務桓は代に帰順してきたため、拓跋什翼犍は彼に娘を娶らせた。 建国6年(343年)7月、拓跋什翼犍は再び前燕に婚姻を求め、結納として千匹の馬を求めたが、拓跋什翼犍はこれを拒否した。また、傲慢な態度を取り、婿としての礼儀に欠けていた。8月、慕容皝は世子の慕容儁に命じ、慕容評らを従え代国を攻撃させた。拓跋什翼犍は軍を撤退させたため、慕容儁は戦うことなく引き返した。 建国7年(344年)2月、拓跋什翼犍は大人の長孫秩を前燕へ派遣し、慕容皝と再度和睦した。慕容皝は娘を送り、拓跋什翼犍は王后に立てた。9月、兄の拓跋翳槐の娘を慕容皝の妻として与えた。 建国14年(351年)、冉閔が華北を荒らすようになると、拓跋什翼犍は自ら六軍を率いて、中原を平定しようと目論んだ。だが、諸部大人の反対を受け、作戦を中止した。 建国19年(356年)1月、劉務桓が死に、弟の劉閼頭が後を継いだ。彼は代国へ対し異心を抱いていた。2月、拓跋什翼犍は西へ向かい、黄河の岸辺に至った。使者を劉閼頭の下へ派遣し、彼を諭した。劉閼頭は大いに恐れて、降伏した。同年冬、慕容儁は代へ使者を派遣し婚姻を求めると、拓跋什翼犍はこれに同意した。 建国21年(358年)、鉄弗部で大規模な造反が発生した。12月、劉閼頭は恐れ、配下を引き連れて東へ逃げた。残った者は、ほとんどが劉悉勿祈(劉務桓の子)へ帰順した。劉悉勿祈の12人の兄弟は全て拓跋什翼犍の近辺で職務に就いていたが、この事件が起こった時、拓跋什翼犍は彼らを全て送還し、劉閼頭と相互に疑わせて勢力を削ごうとした。これにより、劉悉勿祈は劉閼頭を攻撃し、その兵を全て奪った。劉閼頭は止むを得ず代へ亡命し、拓跋什翼犍は彼を以前同様に遇した。 建国23年(360年)6月、王后の慕容氏が卒去した。7月、劉悉勿祈の後を継いだ弟の劉衛辰が代へ出向き、慕容氏の弔問を行った。その際、拓跋什翼犍へ婚姻を求めたので、娘を彼に娶らせた。 建国26年(363年)10月、高車が代国の領域へ進出してくると、拓跋什翼犍はこれを討ち、大破した。 建国27年(364年)11月、没歌部を攻撃してこれを破ると、家畜の数百万匹を捕獲して帰還した。 建国28年(365年)1月、鉄弗部の劉衛辰が代に背くと、拓跋什翼犍は討伐に赴いた。彼が黄河を渡ると、劉衛辰は恐れて逃走した。 建国29年(366年)、拓跋什翼犍は長史の燕鳳を使者として前秦へ派遣して、入貢した。 建国30年(367年)2月、前燕は大規模な遠征を行い、漠南の高車を攻撃に向かった。代国の国境を通る際、稲田を荒らしたので、拓跋什翼犍は激怒した。8月、拓跋什翼犍は幽州軍を率いて雲中にいた慕輿泥を攻撃した。慕輿泥は城を捨てて逃走し、振威将軍の慕輿賀辛は戦死した。 10月、拓跋什翼犍は、劉衛辰征伐の軍を起こした。盛楽から西の朔方へ向かい黄河を渡ろうとした。この時、黄河がまだ凍りついてなかったので、拓跋什翼犍は兵を派遣し、葦で太い紐を作って氷の流れを遮らせた。しばらく待つと河が凍りついたが、まだそれほど堅くなかった。そのため、葦を氷上に散らさせて、気温が下がるのを待った。またしばらく待つと、葦が凍りつき、まるで浮き橋のようになった。これによって大軍は順調に渡河することが出来た。 突然目の前に代軍が現れたため、劉衛辰は突然すぎて対応が取れず、兵士を引き連れて宗族とともに西に逃走した。そしてそのまま前秦へ亡命したが、慌てふためいて一心不乱に逃げたため、部族の6・7割が置き去りにされ、拓跋什翼犍はその兵を吸収した。 建国33年(370年)11月、高車を征伐に赴き、これを大破した。 建国34年(371年)春、長孫斤が謀反を起こした。太子の拓跋寔はこれを討つが、傷を負ってしまい、それが原因で5月に卒去した。 建国37年(374年)、拓跋什翼犍は再度劉衛辰の征伐に向かい、敗れた劉衛辰は南へ逃走した。 建国39年(376年)、劉衛辰の要請により、前秦の苻堅は大司馬の苻洛に20万の兵と朱肜・張蚝・鄧羌等を与えて侵攻させた。彼らは道を分けて進み、南の国境へ侵攻した。11月、白部・独孤部はこれを迎撃するが、2度敗北した。南部大人の劉庫仁は雲中郡に撤退した。拓跋什翼犍は再び劉庫仁を派遣し、騎兵10万を率いて石子嶺で反撃させるが、敗れた。当時拓跋什翼犍は病を患っており、群臣にこの重責を担えるものは誰もいなかった。そのため、軍を率いて陰山の北に逃れた。すると、高車を初めとした各部族が相次いで反乱を起こし、拓跋什翼犍は四方を敵に囲まれることとなり、もはや統治を維持できず、さらに漠南へ移った。その後、前秦軍が少し後退すると、拓跋什翼犍も軍を戻した。12月、拓跋什翼犍は雲中郡まで戻ったが、その12日後、拓跋孤の子の拓跋斤にそそのかされた庶長子の拓跋寔君により、拓跋什翼犍は諸弟と共に殺害された。享年57であった。拓跋什翼犍が殺されたことが前秦軍に伝わると、秦将の李柔と張蚝は瞬く間に雲中郡を攻略した。これにより代国は前秦の支配下に入り、東西に分割された。
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