拓跋什翼犍の時代とは? わかりやすく解説

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拓跋什翼犍の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/28 16:02 UTC 版)

代 (五胡十六国)」の記事における「拓跋什翼犍の時代」の解説

拓跋翳槐は死ぬ間際、弟の拓跋什翼犍後継立て国家安定させるよう諸大人遺言した初め大人は、拓跋什翼犍遠く離れた地にいるため、彼を呼び寄せる間に変事が起こることを恐れた。そのためこの遺命難色示し、弟の拓跋孤後継立てようとした。しかし拓跋孤はこれを拒絶し、自ら鄴へ赴いて拓跋什翼犍迎えた。そして、後趙石虎接見し、自ら兄に代わって人質となることを申し出た石虎拓跋孤気概感心し2人とも返還させてやった。 同年11月、国に帰った拓跋什翼犍は、繁畤以北の地で代王即位した初めて独自の元号用い建国称した建国2年339年)、百官設け国家としての体制整えた代人燕鳳長史に、許謙郎中令それぞれ任じた反逆殺人強姦窃盗などの法が明文化され律令は明確となった。彼の政治清廉簡潔であると称された。連座縁座緩めたので、百姓安心して暮らすことができた。代国では、他国から帰順してきた者を総称して烏桓」と呼んでいた。拓跋什翼犍烏桓二部分け、弟の拓跋孤北部を、庶長子拓跋寔君南部それぞれ監督させた。東は濊貊から西は破落那まで、南は陰山から北は沙漠へ至るまでを服属させ、帰順する民は数十万人数えた拓跋什翼犍は、前燕とも修好深め婚姻関係となることを望んだ燕王慕容皝は妹を嫁がせ、拓跋什翼犍は彼女を王后立てた建国3年340年)春、雲中郡盛楽宮に再び遷都した。 建国4年341年9月、かつて盛楽城があった場所の南8里に新たに城を築いた同月王后慕容氏卒去した。10月匈奴鉄弗部劉虎西部国境侵攻してきた。拓跋什翼犍は軍を派遣して迎え撃ち、これを大破した間もなく劉虎没すると、子の劉務桓は代に帰順してきたため、拓跋什翼犍彼に娘を娶らせた。 建国6年343年7月拓跋什翼犍は再び前燕婚姻求め結納として千匹の馬を求めたが、拓跋什翼犍はこれを拒否したまた、傲慢な態度取り、婿としての礼儀欠けていた。8月慕容皝世子慕容儁命じ慕容評らを従え代国攻撃させた。拓跋什翼犍は軍を撤退させたため、慕容儁は戦うことなく引き返した建国7年344年2月拓跋什翼犍大人長孫秩を前燕派遣し慕容皝再度和睦した慕容皝は娘を送り拓跋什翼犍王后立てた9月、兄の拓跋翳槐の娘を慕容皝の妻として与えた建国14年351年)、冉閔華北荒らすようになると、拓跋什翼犍は自ら六軍率いて中原平定しよう目論んだ。だが、諸部大人反対を受け、作戦中止した建国19年356年1月劉務桓死に、弟の劉閼頭が後を継いだ。彼は代国対し異心抱いていた。2月拓跋什翼犍西へ向かい黄河岸辺至った使者劉閼頭の下へ派遣し、彼を諭した劉閼頭大い恐れて降伏した同年冬、慕容儁は代へ使者派遣し婚姻求めると、拓跋什翼犍はこれに同意した建国21年358年)、鉄弗部大規模な造反発生した12月劉閼頭恐れ配下引き連れて東へ逃げた残った者は、ほとんどが劉悉勿祈劉務桓の子)へ帰順した劉悉勿祈12人の兄弟全て拓跋什翼犍近辺職務に就いていたが、この事件起こった時、拓跋什翼犍は彼らを全て送還し劉閼頭相互に疑わせて勢力を削ごうとした。これにより、劉悉勿祈劉閼頭攻撃し、その兵を全て奪った劉閼頭止むを得ず代へ亡命し拓跋什翼犍は彼を以前同様に遇した建国23年360年6月王后慕容氏卒去した。7月劉悉勿祈の後を継いだ弟の劉衛辰が代へ出向き慕容氏弔問行ったその際拓跋什翼犍婚姻求めたので、娘を彼に娶らせた。 建国26年363年10月高車代国領域進出してくると、拓跋什翼犍はこれを討ち大破した建国27年364年11月、没歌部を攻撃してこれを破ると、家畜数百匹を捕獲し帰還した建国28年365年1月鉄弗部劉衛辰が代に背くと、拓跋什翼犍討伐赴いた。彼が黄河を渡ると、劉衛辰恐れて逃走した建国29年366年)、拓跋什翼犍長史燕鳳使者として前秦派遣して入貢した。 建国30年367年2月前燕大規模な遠征行い漠南高車攻撃向かった代国国境を通る際、稲田荒らしたので、拓跋什翼犍激怒した8月拓跋什翼犍幽州軍率いて雲中にいた慕輿泥攻撃した慕輿泥は城を捨てて逃走し、振威将軍の慕輿賀辛は戦死した10月拓跋什翼犍は、劉衛辰征伐の軍を起こした盛楽から西の朔方向かい黄河渡ろうとした。この時、黄河がまだ凍りついてなかったので、拓跋什翼犍は兵を派遣し、葦で太い紐を作って氷の流れを遮らせた。しばらく待つと河が凍りついたが、まだそれほど堅くなかった。そのため、葦を氷上に散らさせて、気温が下がるのを待った。またしばらく待つと、葦が凍りつき、まるで浮き橋ようになった。これによって大軍順調に渡河することが出来た。 突然目の前に代軍が現れたため、劉衛辰は突然すぎて対応が取れず兵士引き連れて宗族とともに西に逃走した。そしてそのまま前秦亡命したが、慌てふためいて一心不乱に逃げたため、部族6・7割が置き去りにされ、拓跋什翼犍はその兵を吸収した建国33年370年11月高車征伐に赴き、これを大破した建国34年371年)春、長孫斤が謀反起こした太子拓跋寔はこれを討つが、傷を負ってしまい、それが原因5月卒去した。 建国37年374年)、拓跋什翼犍再度劉衛辰征伐向かい敗れた劉衛辰南へ逃走した建国39年376年)、劉衛辰要請により、前秦苻堅大司馬苻洛20の兵と朱肜張蚝鄧羌等を与えて侵攻させた。彼らは道を分けて進み南の国境へ侵攻した11月白部独孤部はこれを迎撃するが、2度敗北した南部大人劉庫仁雲中郡撤退した拓跋什翼犍は再び劉庫仁派遣し騎兵10万率いて石子嶺で反撃させるが、敗れた当時拓跋什翼犍は病を患っており、群臣にこの重責担えるものは誰もいなかった。そのため、軍を率いて陰山の北に逃れた。すると、高車初めとした各部族相次いで反乱起こし拓跋什翼犍四方を敵に囲まれることとなり、もはや統治維持できず、さらに漠南移ったその後前秦軍が少し後退すると、拓跋什翼犍も軍を戻した12月拓跋什翼犍雲中郡まで戻ったが、その12日後、拓跋孤の子拓跋斤にそそのかされ庶長子拓跋寔君により、拓跋什翼犍は諸弟と共に殺害された。享年57であった拓跋什翼犍殺されたことが前秦軍に伝わると、秦将の柔と張蚝瞬く間雲中郡攻略した。これにより代国前秦支配下入り東西分割された。

※この「拓跋什翼犍の時代」の解説は、「代 (五胡十六国)」の解説の一部です。
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