拓跋鬱律の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/28 16:02 UTC 版)
「代 (五胡十六国)」の記事における「拓跋鬱律の時代」の解説
316年、拓跋猗盧・拓跋普根およびその子が相次いで亡くなると、代の者は拓跋鬱律を代王に擁立した。 318年6月、鉄弗部の劉虎が黄河を渡り、再び代国西部に侵攻してきた。7月、拓跋鬱律は軍を率いて迎撃に当たり、これを大破した。劉虎は単騎で包囲を突破して逃走した。劉虎の従弟の劉路孤は部落を率いて帰順してきたので、拓跋鬱律は娘を与えた。 その後、拓跋鬱律は西へ向かい烏孫の故地を攻略し、東へ向かい勿吉以西の地区を併合した。拓跋部の兵馬は強壮であり、騎射ができる将は百万にのぼったという。他部族を圧倒しており、代国は北方に覇を唱えた。 同年、前趙の劉曜が晋の愍帝を殺害したと聞くと、大いに嘆いた。劉曜は代国へ使者を派遣して和親をはかったが、拓跋鬱律は受け入れなかった。 319年、石勒は自ら趙(後趙)王を称すと、代国と和親をはかり、兄弟となることを請うた。しかし、拓跋鬱律は遣使を斬り捨てると、国交を断絶した。 幽州刺史段匹磾の兵民は飢餓のため離散し、薊を守る力がなくなり、上谷に移動しようとした。拓跋鬱律はこれを攻撃し、敵軍を壊滅させた。段匹磾は妻子を棄てて楽陵郡に奔り、冀州刺史邵続を頼った。 320年、涼州刺史張茂の使者が代国に朝貢した。 321年、東晋の元帝が代国へ使者を送り爵位を与えたが、拓跋鬱律はこれを断った。拓跋鬱律には、南方を平定しようという志があった。 伯母の惟氏(拓跋猗㐌の妻)は、拓跋鬱律が部族の心を得て、その勢力が強大であるため、自らの子が後継に立てられないことを恐れた。惟氏は、拓跋鬱律と諸大人を殺し、死者は数十人に及んだ。
※この「拓跋鬱律の時代」の解説は、「代 (五胡十六国)」の解説の一部です。
「拓跋鬱律の時代」を含む「代 (五胡十六国)」の記事については、「代 (五胡十六国)」の概要を参照ください。
- 拓跋鬱律の時代のページへのリンク