拓跋部との通婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:48 UTC 版)
遡る事339年5月、代王拓跋什翼犍は前燕へ使者を派遣し、慕容皝と姻戚関係を結ぶ事を望んだ。慕容皝はこれに同意し、妹の興平公主を妻として娶らせた。 343年7月、拓跋什翼犍は再び使者を派遣し、またも慕容皝へ婚礼を求めた。慕容皝もまた使者を派遣し、結納の条件として千匹の馬を求めたが、拓跋什翼犍はこれを拒否した。また傲慢な態度を取り、婿としての礼儀に欠けていた。8月、慕容皝はこれに憤り、世子の慕容儁に命じ、前軍師慕容評らと共に代国を攻撃させた。だが、拓跋什翼犍はその民を従えて別の地へ避難したので、慕容儁らは戦うことなく引き返した。 10月、龍城において大規模な工事を行い、新たな宮殿の建造を開始した。また、自ら各地方の巡察を行い、郡県へ農桑を大々的に奨励した。 344年2月、両者の関係が改善されると、拓跋什翼犍は大人の長孫秩を派遣し、前燕より后を迎えた。 4月、後趙の平北将軍尹農は前燕の凡城を攻めたが、勝利できずに撤退した。 7月、慕容皝は東晋へ使者を派遣し、代国と婚礼を交わす許可を求め、朝廷はこれを許可した。9月、慕容皝は拓跋翳槐(拓跋什翼犍の兄)の娘を妻として迎え入れた。
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