拓跋部との修好
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 12:53 UTC 版)
307年、慕容廆は鮮卑大単于を自称した。単于とは主に匈奴族で用いられている君主号であり、数ある鮮卑族の中でも自らが頂点であると標榜した事になる。 またこの年、代の地において勢力を拡大していた拓跋部の大人拓跋禄官がこの世を去った。彼らもまた慕容部と同じ鮮卑族であるが、拓跋禄官の時代(295年から307年頃)に慕容廆は東部拓跋部(この当時拓跋部は西・中・東の3部に分かれていた)へ侵攻して各地を荒らし回った事があり、拓跋普根より攻撃を受けて撤退していた。これもあって両者の関係はあまり良好とは言えなかった。しかし後を継いだ大人の拓跋猗盧の時代になると、次第に修好を深めるようになったという。
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