慕容廆とは? わかりやすく解説

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慕容廆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/31 04:13 UTC 版)

慕容 廆[1](ぼよう かい、拼音:Mùróng Guī、泰始5年(269年) - 咸和8年5月6日333年6月4日))は、鮮卑慕容部の大人(部族長)(在位:285年 - 333年)。昌黎郡棘城県(現在の遼寧省錦州市義県の北西)の出身。[2]弈洛瓌[3]。父は慕容渉帰、兄に慕容吐谷渾、弟に慕容運がいる。遼西遼東地方においてその勢力を拡大させて国家体制を整備し、後に前燕が覇権国家となるための基盤を築き上げた。その為、実質的な前燕の初代君主に数えられる事もある。子の慕容皝が燕王に即位すると武宣王と追諡され、さらに孫の慕容儁が帝位に即くと武宣皇帝と追諡され、廟号を高祖とされた。


  1. ^ 『十六国春秋』によるならば、父の慕容渉帰が遼東の北に移って以降、初めて漢人の風習に倣って姓という概念を持つようになり、慕容という姓を名乗ったという。これが正しいならば、慕容廆が出生時から慕容という姓を持っていたかは不明であり、元々は弈洛瓌と呼ばれていたのを、父に倣って姓を慕容とし、名をに改めたという可能性もある。
  2. ^ 『魏書』吐谷渾伝・『宋書』鮮卑吐谷渾伝では、弈洛瓌を字ではなく別名とする。
  3. ^ 弈洛瓌としているのは『晋書』と『魏書』徒何慕容廆伝である。『十六国春秋』では弈落瓌、『太平御覧』では弈洛環、『魏書』吐谷渾伝・『宋書』鮮卑吐谷渾伝では若洛廆とする。
  4. ^ 『資治通鑑』では285年だが、『十六国春秋』では太康5年(284年)の出来事とする。
  5. ^ 慕容廆が帰順を決断したとき、側近へ向けて「我が先公は代々、中華(ここでは魏王朝・晋王朝を指す)を奉じてきた。その上、華夷の理(漢民族と異民族の風俗や礼儀)は同一では無く、その強弱は比べるまでもなく明らかだ。どうして晋国と競い合う事など出来るであろうか。どうして不和となって我が百姓に害を及ぼすことが出来ようか!」と宣言したという。
  6. ^ 『資治通鑑』には鮮卑大都督ともある
  7. ^ 『資治通鑑』では289年だが、『十六国春秋』では元康4年(294年)の出来事とする。
  8. ^ 『大棘城』とも記載される場合がある。五帝の一人である顓頊の墳墓があるという。
  9. ^ 『晋書』・『十六国春秋』には永寧年間の出来事とある
  10. ^ 慕輿句は勤勉で謙恭な性格であると評判であり、慕輿河は言葉に出さないで物事の道理を容易く悟る才能があると称されていたという。
  11. ^ 文書や武具・財物などを収蔵する蔵を指す
  12. ^ 『資治通鑑』・『十六国春秋』には宇文素怒延とも
  13. ^ 「遼左」とは遼東を指し、「雑夷」とは諸々の異民族を指し、「流人」とは難民を指す。
  14. ^ 『十六国春秋』には1千戸、『晋書』には2千戸とある
  15. ^ 『十六国春秋』によれば侍中の位についてもこれまで通りとされているが、これは散騎常侍の事を指すと思われる(散騎常侍は侍中府に属する)。
  16. ^ 『晋書』ではここで初めて侍中に任じられているが、『十六国春秋』では321年12月の時点で任じられていることになっている。
  17. ^ 『資治通鑑』では323年4月頃とする。『十六国春秋』では325年3月とする
  18. ^ 「明公使君轂下:振徳曜威,撫寧方夏,勞心文武,士馬無恙,欽高仰止,注情彌久。王途險遠,隔以燕越,毎瞻江湄,延首遐外。天降艱難,禍害屡臻,舊都不守,奄為虜庭,使皇輿遷幸,假勢呉、楚。大晋啓基、祚流萬節,天命未改,玄象著明,是以義烈之士深懐憤踴。猥以功薄,受國殊寵,上不能掃除群羯,下不能身赴國難,仍縱賊臣,屡逼京輦。王敦唱禍於前,蘇峻肆毒於後,凶暴過於董卓,悪逆甚於傕、汜,普天率土,誰不同忿!深怪文武之士,過荷朝榮,不能滅中原之寇,刷天下之恥。君侯植根江陽,發曜荊、衡,杖葉公之權,有包胥之志,而令白公、伍員殆得極其暴,竊為丘明恥之。區區楚國子重之徒,猶恥君弱、群臣不及先大夫,厲己戒衆,以服陳、鄭,越之種、蠡尚能弼佐勾踐,取威黄池,況今呉土英賢比肩,而不輔翼聖主,陵江北伐。以義聲之直,討逆暴之羯,檄命舊邦之士,招懐存本之人,豈不若因風振落,頓阪走輪哉!且孫氏之初,以長沙之衆摧破董卓,志匡漢室。雖中遇寇害,雅志不遂,原其心誠,乃忽身命。及權據揚、越,外杖周、張,内馮顧、陸,距魏赤壁,克取襄陽。自茲以降,世主相襲,咸能侵逼徐、豫,令魏朝旰食。不知今之江表為賢俊匿智,藏其勇略邪?將呂蒙、凌統高蹤曠世哉?況今凶羯虐暴,中州人士逼迫勢促,其顛沛之危,甚於累卵。假號之強,衆心所去,敵有釁矣,易可震盪。王郎、袁術雖自詐偽,皆基淺根微,禍不旋踵,此皆君侯之所聞見者矣。王司徒清虚寡欲,善於全己,昔曹参亦綜此道,著畫一之稱也。庾公居元舅之尊,處申伯之任,超然高蹈,明智之權。廆於寇難之際,受大晋累世之恩,自恨絶域,無益聖朝,徒系心萬里,望風懐憤。今海内之望,足為楚、漢輕重者,惟在君侯。若戮力盡心,悉五州之衆,據兗、豫之郊,使向義之士倒戈釋甲,則羯寇必滅,國恥必除。廆在一方,敢不竭命。孤軍輕進,不足使勒畏首畏尾,則懐舊之士欲為内應,無由自發故也。故遠陳寫,言不宣盡。」
  19. ^ 「自古有國有家,鮮不極盛而衰。自大晋龍興,克平岷、會,神武之略,邁蹤前史。惠皇之末,後黨構難,禍結京畿,釁成公族,遂使羯寇乘虚,傾覆諸夏,舊都淪滅,山陵毀掘,人神悲悼,幽明發憤。昔獫狁之強,匈奴之盛,未有如今日羯寇之暴,跨躡華裔,盜稱尊號者也。天祚有晋,挺授英傑。車騎將軍慕容廆自弱冠蒞國,忠於王室,明允恭粛,志在立勲。屬海内分崩,皇輿遷幸,元皇中興,初唱大業,粛祖継統,蕩平江外。廆雖限以山海,隔以羯寇,翹首引領,系心京師,常假寤寐,欲憂國忘身。貢篚相尋,連舟載路,戎不税駕,動成義舉。今羯寇滔天,怙其丑類,樹基趙、魏,跨略燕、斉。廆雖率義衆,誅討大逆,然管仲相斉,猶曰寵不足以御下,況廆輔翼王室,有匡霸之功,而位卑爵輕,九命未加,非所以寵異藩翰,敦獎殊勲者也。方今詔命隔絶,王路險遠,貢使往來,動彌年載。今燕之舊壤,北周沙漠,東盡樂浪,西曁代山,南極冀方,而悉為虜庭,非復國家之域。將佐等以為宜遠遵周室,近淮漢初,進封廆為燕王,行大將軍事,上以総統諸部,下以割損賊境。使冀州之人望風向化。廆得祗承詔命,率合諸國,奉辭夷逆,以成桓文之功,苟利社稷,專之可也。而廆固執謙光,守節彌高,毎詔所加,讓動積年,非將佐等所能敦逼。今區區所陳,不欲苟相崇重,而愚情至心,實為國計。」
  20. ^ 「車騎將軍憂國忘身,貢篚載路,羯賊求和,執使送之,西討段國,北伐塞外,遠綏索頭,荒服以献。惟北部未賓,屡遣征伐。又知東方官號,高下斉班,進無統攝之權,退無等差之降,欲進車騎為燕王,一二具之。夫功成進爵,古之成制也。車騎雖未能為官摧勒,然忠義竭誠。今騰箋上聽,可不遲速,當任天臺也。」
  21. ^ 『晋書』によると、この時張華は安北将軍の地位にあったという。
  22. ^ 尾崎康「北魏における渤海高氏」『斯道文庫論集』第2巻、慶應義塾大学附属研究所斯道文庫、1963年3月、7頁、CRID 1050845763876903040ISSN 0559-7927 


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