人材を招聘とは? わかりやすく解説

人材を招聘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 12:53 UTC 版)

慕容廆」の記事における「人材を招聘」の解説

当時中原相次ぐ乱により荒廃しており、多くの民が幽州治め王浚頼った。だが王浚は彼らをうまく慰撫出来ず政法整っていなかったので、多くの者が離反した段部にもまた多くの民が帰順したが、彼らは武勇有していたものの、士大夫礼遇しなかった。ただ、その中にあって慕容廆政事は公正であり、人物重んじたので、士民多く彼の下へ身を寄せた慕容廆はその中から俊才な者を抜擢し、その才能適した職務与えたこの中には、後に国家中枢を担う人材多数集結している。 かつて慕容廆が素喜連らの乱を鎮圧して以降東夷校尉の封釈とは修好深めるようになっていた。彼はその後間もなく亡くなってしまったが、死ぬ間際にまだ幼かった孫の封奕慕容廆託していた。慕容廆はその遺言に従って封奕招き、共に語らい合ったところ「まさしく奇士才智突出している人の事)である!」と感嘆し、自らの傘下として迎えたさらには封釈の子である封悛封抽もまた父の喪に服す為に慕容廆の下を訪れており、慕容廆は彼らと会うなり「この家の者が相次いで下ってきているのは、千斤の犍(去勢され雄牛)の価値がある」と喜び、彼らもまた仕官させた。 河東出身裴嶷やその甥の裴開は、兄の玄菟郡太守裴武が亡くなった為に郷里戻ろうとしていたが、道が断絶されていた為に方針転換して慕容廆帰順した。これを知った慕容廆大喜びで彼らを出迎えた広平出身游邃魏郡出身黄泓北海出身の逄羨・西河出身の宋奭らは元々永嘉の乱避けて王浚本拠地である避難していたが、やがて王浚見限って慕容廆帰順した平原出身宋該劉翔らもまた元々王浚帰順し次いで段部にも身を寄せたが、いずれも君主の器ではないと考え諸々流民引き連れて慕容廆帰順した右北平出身陽耽清廉沈着機敏である事で評判であり、西晋遼西郡太守であった313年慕容翰陽楽攻め落とした際に捕らえられたが、慕容廆はこれを礼節をもって迎え入れ仕官させた。 安定出身皇甫岌とその弟の皇甫真は、慕容廆西晋東夷校尉崔毖双方から招聘受けていたが、慕容廆の方を選んで帰順した遼東出身の張統は楽浪帯方の2郡において勢力築いており、高句麗連年渡り争っていた。楽浪出身王遵は張統を説得して慕容廆への帰順持ち掛けると、張統はこれに同意して千家余り率いてその傘下入った慕容廆楽浪郡設置すると、張統を太守に、王遵参事任じた慕容廆裴嶷陽耽黄泓魯昌謀主外交内政軍略関わる役職)に、游邃・逄羨・宋奭・西方虔・封抽裴開股肱謀主に次ぐ側近)に任じ宋該皇甫岌・皇甫真・繆愷・劉斌・封奕封裕には枢要国家機密)を主管させた。こうして統治体制強固なものにした。 314年4月、漢(後の前趙)の征東大将軍石勒城を攻め落とし王浚処刑された。王浚配下会稽出身左車魯国出身の孔纂・泰山出身の胡毋翼の3人はから昌黎逃走すると、慕容廆帰順した。 この時、中国流民で慕容廆帰順する者は数万家を超えており、慕容廆は冀陽郡を設置して冀州からの流民を住まわせ、成周郡を設置して豫州からの流民を住まわせ、営丘郡を設置して青州からの流民を住まわせ、唐国郡を設置して并州からの流民を住まわせた。

※この「人材を招聘」の解説は、「慕容廆」の解説の一部です。
「人材を招聘」を含む「慕容廆」の記事については、「慕容廆」の概要を参照ください。

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