慕容廆の謀臣とは? わかりやすく解説

慕容廆の謀臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/24 14:18 UTC 版)

裴嶷」の記事における「慕容廆の謀臣」の解説

313年裴嶷謀主任じられた。この時期、乱を避けて遼東流れてくる士人多くいたが、みな慕容廆につくべきかどうか迷っていた。裴嶷はこれらの諸士纏め上げて傘下引き入れ慕容廆覇業推し進めたので、慕容廆よりその働きぶりを大い称賛された。 318年3月裴嶷慕容廆へ「晋室は衰えて江東追いやられ、その威徳遠方まで及びません。中原動乱救済するには、明公慕容廆といえども力不足です。今、諸部は各々軍備擁しているとは言え頑愚連中集まりですから、次第蚕食していくべきです。これらを併合して領土増やし西方平らげる足掛かりとしますように」と進言すると、慕容廆は「壮大な計画であり、我には考えもつかなかった。君は朝廷においては名の知られ名士なのに、我を僻遠の出身と侮らずに教授してくれる。我に国を興させるため、天が君を下賜してくれたのだろうな」と喜んだ。こうして裴嶷長史参謀相談役に相当)に任じられ軍務国政謀略全て委ねられた。裴嶷遼東遼西割拠する弱小部族から順を追って勢力下に引き入れ少しずつ慕容廆勢力拡大させていった319年12月宇文部大人宇文遜昵延数十率いて本拠地棘城に襲来すると、内外人々動揺した慕容廆裴嶷対応策を問うと、裴嶷は「遜昵延(宇文遜昵延)は大軍擁しておりますがその軍に号令はなく、もし精兵率いて隙に乗ずれば必ず捕らえる事が出来でしょう」と語った慕容廆裴嶷嫡子慕容皝精鋭与えて先鋒とし、自身大軍率いて後続となった宇文遜昵延慕容廆籠城するとばかり思い込んでおり、全く備えをしていなかったため、その襲来驚いて慌てて全軍出陣させた。この時、慕容廆庶子である慕容翰別動隊率いて城外におり、この隙を突いて宇文遜昵延陣営突入して焼き払っていった。これにより宇文部軍は大混乱に陥って大敗し宇文遜昵延は体一つ逃げ出した。こうして慕容廆は敵の兵卒のほとんどを捕虜とし、更に宇文部代々伝わる皇帝玉璽三紐を手に入れた

※この「慕容廆の謀臣」の解説は、「裴嶷」の解説の一部です。
「慕容廆の謀臣」を含む「裴嶷」の記事については、「裴嶷」の概要を参照ください。

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