慕容廆の謀臣
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313年、裴嶷は謀主に任じられた。この時期、乱を避けて遼東へ流れてくる士人が多くいたが、みな慕容廆につくべきかどうか迷っていた。裴嶷はこれらの諸士を纏め上げて傘下に引き入れ、慕容廆の覇業を推し進めたので、慕容廆よりその働きぶりを大いに称賛された。 318年3月、裴嶷は慕容廆へ「晋室は衰えて江東へ追いやられ、その威徳は遠方まで及びません。中原の動乱を救済するには、明公(慕容廆)といえども力不足です。今、諸部は各々軍備を擁しているとは言え、頑愚な連中の集まりですから、次第に蚕食していくべきです。これらを併合して領土を増やし、西方を平らげる足掛かりとしますように」と進言すると、慕容廆は「壮大な計画であり、我には考えもつかなかった。君は朝廷においては名の知られた名士なのに、我を僻遠の出身と侮らずに教授してくれる。我に国を興させるため、天が君を下賜してくれたのだろうな」と喜んだ。こうして裴嶷は長史(参謀や相談役に相当)に任じられ、軍務と国政の謀略を全て委ねられた。裴嶷は遼東・遼西に割拠する弱小の部族から順を追って勢力下に引き入れ、少しずつ慕容廆の勢力を拡大させていった。 319年12月、宇文部の大人宇文遜昵延が数十万を率いて本拠地の棘城に襲来すると、内外の人々は動揺した。慕容廆が裴嶷へ対応策を問うと、裴嶷は「遜昵延(宇文遜昵延)は大軍を擁してはおりますがその軍に号令はなく、もし精兵を率いて隙に乗ずれば必ず捕らえる事が出来るでしょう」と語った。慕容廆は裴嶷と嫡子の慕容皝に精鋭を与えて先鋒とし、自身は大軍を率いて後続となった。宇文遜昵延は慕容廆が籠城するとばかり思い込んでおり、全く備えをしていなかったため、その襲来に驚いて慌てて全軍を出陣させた。この時、慕容廆の庶子である慕容翰は別動隊を率いて城外におり、この隙を突いて宇文遜昵延の陣営へ突入して焼き払っていった。これにより宇文部軍は大混乱に陥って大敗し、宇文遜昵延は体一つで逃げ出した。こうして慕容廆は敵の兵卒のほとんどを捕虜とし、更に宇文部に代々伝わる皇帝の玉璽三紐を手に入れた。
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