慕容恪の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 00:24 UTC 版)
4月、前燕を黎明期より支えた功臣である太尉・武平公の封奕が死去した。これにより、司空陽騖を後任の太尉とし、並びに侍中・光禄大夫に任じた。また。皇甫真を陽騖に代わって司空・領中書監に任じた。 366年9月、鐘律郎郭欽は上奏し、五行について前燕は後趙の水徳を承けて木徳とするよう議すと、慕容暐はこれに従った。 10月、撫軍将軍慕容厲を兗州へ侵攻させ、東晋の泰山郡太守諸葛攸を攻撃させた。慕容厲は諸葛攸を淮南へ退却させ、兗州の魯郡や高平郡などの諸郡を陥落させると、守宰を置いてから帰還した。 12月、東晋の南陽督護趙億が宛の地で反乱を起こし、郡を挙げて前燕へ帰順し、太守桓澹は新野へ逃走した。これを受けて慕容暐は、南中郎将趙盤を魯陽から宛に移らせ、守備を命じた。 367年2月、慕容厲は鎮北将軍慕容桓と共に漠南へ侵攻し、勅勒を撃った。 4月、鎮南将軍慕容塵は竟陵へ侵攻したが、東晋の竟陵郡太守羅崇に撃ち破られた。 同月、慕容恪は病を患うようになると、慕容暐へ「呉王垂(慕容垂)の将相(将軍と宰相)の才覚は臣に十倍します。先帝(慕容儁)は幼長の序列を重視して臣を先に取り立てたに過ぎません。臣が死んだ後は、どうか国を挙げて呉王を尊重なさって下さい」と進言した。 5月、慕容恪の病がいよいよ重篤となると、慕容暐は自ら見舞いに出向いて後事を問うた。すると慕容恪は「臣が聞くところによりますと、恩に報いるには賢人を薦めるのが最上であると言います。賢者であれば、例え板築(下賤)であっても宰相とするには足りましょう。ましてや近親の者ならなおさらです!呉王は文武に才能を兼ね備え、管(管仲)・蕭(蕭何)にも匹敵します。もしも陛下が彼に大政(国家の政治)を任せれば、国家は安泰です。そうでなければ、必ずや秦か晋に隙を窺われましょう」 と語り、再び慕容垂を重用するように言い残した。その後、間もなく没した。 これ以降、慕容評と可足渾皇太后が国政を担うようになった。
※この「慕容恪の死」の解説は、「慕容暐」の解説の一部です。
「慕容恪の死」を含む「慕容暐」の記事については、「慕容暐」の概要を参照ください。
- 慕容恪の死のページへのリンク