慕容垂との対立とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 慕容垂との対立の意味・解説 

慕容垂との対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/31 09:44 UTC 版)

慕容評」の記事における「慕容垂との対立」の解説

前燕併呑目論んでいた前秦天王苻堅は、慕容恪の死格好機会思い西戎主簿郭弁を密かに鄴へ派遣して内情を探らせた。郭弁は身分偽った上で鄴に入り込むと、司空皇甫真接近して取り入ろう図ったが、皇甫真はこれを疑って郭弁を詳しく取り調べる様に要請したが、慕容評はこれを聞き入れなかった。 10月前秦の晋公苻柳蒲坂で、趙公苻双が上邽で、魏公苻廋が陝城で、燕公苻武が安定で、それぞれ苻堅対す反乱起こしたその際苻廋は陝城を挙げて帰順条件前燕援軍要請した前燕魏尹范陽慕容徳前秦を討つ絶好機会であるとして「先帝天命従い天下統一しよう志し陛下その後継いでこれを成就なさっております。今、苻氏では骨肉の争い起こり、国が五つ蒲坂・陝城・上邽安定長安)に別れました。そして、我が国降伏する者も相継いでおります。これは秦を燕へ贈ろうという天の御心でございます。『天の与えたるを取らざれば、却ってその殃を受くと申しますが、これは(春秋時代の)呉・越興亡見れば明白でございます願わくば皇甫真并州冀州の兵を与えて蒲坂攻撃させ、慕容垂に許・洛(許昌洛陽)の兵を与えて陝城の包囲を解かせ、太傅慕容評)には京師首都である鄴)の兵を与えて出撃させてくださいますよう。その上で三輔前秦本拠地である関中)へ檄文飛ばして利害説き賞罰明確にすれば、敵は風に靡くように我が軍のもとへ馳せ参じましょう今こそ天下平定絶好機会なのです!」と上疏して出兵要請した多く群臣がこれに同意し慕容暐もまたこれに大い喜んで従おうとしたが、慕容評は「秦は大国であり、今国難襲われているといえども侮る事は出来ん。それに我らの国は朝廷こそ1つであるが、先帝崩御したばかりである。また、我ら知略太宰慕容恪)には及ばない今は関所閉じて国境固守するのが最良である。平秦(前秦平定)など荷が重すぎる」と述べて反対し、結局軍事行動を起こさなかった。最終的に反乱前秦王猛鄧羌張蚝楊安・王鑒らによって同年の内に鎮圧された。 慕容恪は死ぬ間際慕容垂後任大司馬抜擢するよう求めていたが、慕容評慕容垂の事を好ましく思っていなかったのでこの進言用いておらず、大司馬職は空位となっていた。そして、368年2月には慕容垂ではなく中山王慕容沖大司馬抜擢した慕容評執政して以降王公貴族豪族らは密かに多く戸籍隠し持つようになっていた。同年9月広信悦綰慕容暐へ、諸々の蔭戸(私的に抱えている戸籍)を廃して郡県に返還する進言すると、慕容暐はこれに同意し悦綰命じてこれらの摘発専従させた。悦綰事実究明し厳格に摘発したので、王公は不正を隠し通すことが出来ず公民20万戸増員する事が出来た。だが、私腹を肥やしていた官民たちはこの措置大い憤り慕容評もこれを大いに不満とした。11月慕容評は賊を派遣して悦綰暗殺した369年4月東晋大司馬桓温前燕征伐兵を挙げた前燕諸将各地桓温敗戦重ね楽安慕容臧率い主力軍も抗する事が出来ず遂に東晋軍は枋頭まで到達した7月慕容評はこれを大い恐れ慕容暐伴って鄴を離れて旧都である龍城まで後退しようとしたが、呉王慕容垂が「臣が迎撃いたします。もしも勝てなければ、それから逃げて遅くありません」と訴えた慕容暐はこれを認め慕容垂を南討大都督に任じて5万の兵を率いて迎撃命じと共に前秦虎牢以西の地を割譲する事を条件援軍要請した9月慕容垂率い前燕軍は各地勝利を収めると共に敵軍糧道断ち桓温軍を退却させた。さらには援軍に来た前秦と共に桓温軍を追撃し大い戦果挙げた。 この戦功により慕容垂威名大い轟くようになり、慕容評益々彼を忌避するようになったその後慕容垂は「今回募った将士は、みな命がけ功績建てました。特に将軍らは精鋭戦って強固な敵陣を陥しました。どうか厚い恩賞賜りますよう」と上奏したが、慕容評はこれを慕容暐通さず握りつぶしてしまった。だが、慕容垂幾度もこの事を要請し遂に慕容評朝廷言い争うようになった。これにより、両者の対立決定的なものとなった。可足渾皇太后もまたかねてより慕容垂嫌っていたので、慕容評は彼女と共に慕容垂誅殺謀略巡らせるようになった11月慕容垂災い避けるために密かに龍城移ろう思い狩猟に出ると称して平服で鄴を出奔した。だが、邯鄲にいる慕容麟慕容垂の子)がこの事実告訴したので、慕容評慕容暐へこの事を訴えと共に西平慕容強精鋭兵を与えて追撃命じた。その為、慕容垂進路変更して洛陽に入ると、前秦亡命した慕容徳車騎従事中郎高泰らは慕容垂と仲が良かったので、慕容評は彼らをみな免官とした。尚書右丞申紹慕容評へ「今、呉王(慕容垂)が出奔したことで、外ではあちこちその事言いはやされています。王の僚属の中でも賢明な人物昇進させる事で、いらぬ噂を消し去るべきです」と勧めると、慕容評は「誰にすべきか」と問うた。申紹は「高泰がもっと適任です」と答えたので、慕容評高泰尚書郎抜擢した

※この「慕容垂との対立」の解説は、「慕容評」の解説の一部です。
「慕容垂との対立」を含む「慕容評」の記事については、「慕容評」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「慕容垂との対立」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「慕容垂との対立」の関連用語

1
6% |||||

慕容垂との対立のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



慕容垂との対立のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの慕容評 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS